マドリッドから札幌へ、だいたい一年半が経った

一年半という区切りに特別な意味はありません。
しばらくここでは何も書いていなかったですが、昨年の7月あたりから4ヶ月にわたって、建築とアートのポータルサイトである”ART and ARCHITECTURE REVIEW“のオフィシャルブロガーとしていくつか記事を書かせてもらっていました(残念ながらART and ARCHITECTURE REVIEWは現在活動停止中になってしまっていますが)。ここに記事がまとまっています。マドリッドから帰ってきてからどんなことをやっていたのかなど簡単にまとめているので、前回のエントリとこれからのエントリのつなぎの役割を果たしてくれるのではないかと思います。

 

相変わらずやることの多い年度末。
設計事務所としての仕事はまだ仕込みが長いもの多くてなかなか完成に至らないものが多いですが、こつこつ、でもペースをあげて取り組んでいこうと思っています。北大及び観光学高等研究センターとの関わりのなかでは、まだまだ色々なプロジェクトに参戦しつつ、その中でたくさんの情報を仕入れているように思います。地域で起こっている色々なこと、産業の現状、そのなかでのまちづくり・環境づくりの現状、ツーリズムとの関わり、コミュニティとツーリズム、そうしたファクターを直視しながら地域や都市、風景や環境について考えること。実はこういう立ち位置からでしかアクセスしにくい多様な情報に自分は触れているんじゃないかと、周りを見渡していてそんなことを感じることが多くなってきました。一年半札幌に腰を落ち着けてみて、やっとそう思えるようになってきたということかもしれません。それを少しづつでも伝えたり、共有して一緒に考えていくことの意義を最近感じています。

スイスパリロンドンからマドリッド着の寝る前の一文

マドリッドに帰ってきました。一時帰国して再入国してからすぐの三週間弱の長旅でした。スイスの後はパリで色んな人たちと出会うことができました。本当に面白かったし刺激になったなー。前回滞在で見落としたコルビジェ作品とかペレ作品とか教会を訪れたり、ちょっと郊外に足を延ばしてみたり、パリの歴史とか街の構造とか、そういうことも今回は結構みれたんじゃないだろうか。二回目のポンピドゥーに半日いたり、先輩にはルーブルのフランス・イタリア絵画のレクチャーをしてもらったり、ブールデルもみたし、しっかり美術めぐりもできて満足でした。パリはまだ何回も行くことになるでしょう。本当に楽しかった。色々と相手をしてくれた皆さんに感謝します。ほとんど毎晩飲み歩いて、ワクワクするような色んな話ができて本当に楽しかった。
パリ滞在をずるずる伸ばしてのロンドン入りは、若干の疲れがあったものの短時間で色々見れました。ちょっと時間と下調べ不足だったからまたそうちかな。テートでダミアンハースト展みてたらザハさんと一緒だった笑。これもまたよかった。
ロンドン市内は新しい建築と古くからの建築の関係がすごくダイナミックだった。というかそれを表現の主題にできてるものがよかった、OMAのとか。あの辺りの大きなボリュームの建物に囲まれながら毛細血管のように生きてるビルの谷間のようなストリートがすごく魅力的だった。ロンドンはいわゆるカントリーも良いと聞いていたけれども、今回はセンターだけ。
色んな話の中で、スペインにおけるマドリッドの位置づけというものも、問われることによって、自分でも整理ができてきました。
パリで、ひょんなことから見せていただけることになったリトグラフの工房では、モノの重量(というのはリトグラフに使う石板のことだが。こういうことも全部始めて知ったけれど)によって、色んな才能がこの空間に召還され続けているという事実と、連続した営みによって引き継がれてきた空間の豊かさと、長い時間をかけて滑らかになった金属製機械の、聞いたことのない楽器のような音色とに、目の醒めるような感動を覚えて、その空間に身を置くことで背筋が伸びました。この感じは忘れたくない。
またマドリッドで動きまわったら、次はドイツ近辺と北欧に行きたい。今回のインプットは膨大で強烈。

紹介

リンクの追加。「euro journey」でいいのか?
筑波大の建築友達で、一年休学して旅してた人の写真やらスケッチやら。彼が旅行している間、ちょうど僕も窓のリサーチなんかでスペイン・ポルトガルをまわってたから、ここがよかったよとか色々教えてあげたら、お礼にとシザのMarco de Canavezesのサンタ・マリア教会の写真をくれて、その写真がすごく良かった。結局僕は日程的にサンタ・マリア教会にだけ行けなかったから、だからこそあの写真をくれたんだろうか。
そんなできごとも気がつけば、一年以上も前の話。お互い次のフェーズに進むんだねと、飲んだのが二週間くらい前か。
適当でひねくれてる(つもりはないけど)僕に比べ、ちょっと熱すぎるくらい熱くてまっすぐなやつです。
それにしても、いい写真とるよねー。あと彼はすごく強い絵をもってる。

夏の終わらせ方

今年ほど夏が気持ちいいと感じたことはない。
これは今年の東京の夏が、例年と比較してどうかということじゃなくて、自分の身体の問題みたい。
東京で聞く「わたし夏が好き」が、意味のない言葉みたいに聞こえていたのに、どうやら僕も夏が好きになってしまったらしい。
そんななか、修制を考えたり、ビエンナーレの最後の準備をしたり、tokyo researchをねばりづよくやっていたり、そして比較的よく本を読む。
じわじわとゆっくり、それでも着実に進んでいる、秋みたいな夏。
「羊をめぐるセロ弾きのゴーシュ」と題した前回のブログが、実は当の「羊飼い」によって紹介されていることを、ごく二、三日前に発見しました。こんなこと勝手に書くなんてけしからん、とでも言われてしまったらどうしようかと思っていたけれど、案外気に入ってくださったようでほっとしました。草野さん、どうもありがとうございます。→http://ch09905.kitaguni.tv/e1691852.html
(そしてゴーシュ羊牧場のリンクも追加)
すごく遠い。でも近い。広くて浅い世界から狭くて深い世界へ。
この羊牧場に限らず、今の僕の身の回りで起こっている色んなものごとが口をそろえて、そう語りかけているような気がします。
そしてまた羊牧場に、僕は行くことになったのです。
学会発表の準備をして、相変わらずtokyo researchをねばりづよく継続し、実施コンペに向けて準備をしつつ、羊牧場で何日か、おそらく奇跡的な時間を過ごして、何冊かの本を読み、釧路で寿司を食べ、集めてきた情報を整理している途中でベニスに飛んで、ビエンナーレの会場をつくって、イタリアで三週間くらい、おそらく奇跡的な時間を過ごして、その足で富山で学会発表をして、日本海側のどこかをふらりと回って東京に帰ると、今年の夏はもう終わっているんだ。

さつき

一ヶ月。。
ベニス。
ベニスの準備も一ヶ月かかって、ほぼ終盤。研究室総出で最後にガッときた。あとは自分がしくらずに最後きちんと締めて、みんなのがんばりに報いなければ。
マドリッド。
マドリッド工科大への留学がほぼ決まった。らしい。
正式な通知をもらってないからまだ、「らしい」にしとく方が無難なのか。なんにせよ来年の進路が見えてきて一安心。
ずっとマドリッド行くと言いつづけてたくせにスペイン語で落とされたりしたらかっこつかないなと思ってたけど、大丈夫そうだ。というかそもそもスペイン語のレベルはあんまり関係ないらしい。
なんでスペインってのはよく聞かれるが。eduardo torrojaとか Miguel Fisacとか、架構とデザインは昔から強いし。同じ国の中にある、気候と文化の違いに惹かれて。東工大で交換留学するのは結構簡単だから、それじゃ行けないところに行こうというのもあったし。修士をきっちり終えてから、切り替えて行きたいというのもあったし。建築学科生が5000人いる時点で、多分ほんとに色んなことが起こっているんだろう。何より建築つくることにポジティブだから、スペインの風土は。どうもそれはフランコ政権とか抑圧の歴史的背景があるみたいなんだけど、スペイン人いわく。まだ先だけど楽しみで仕方ない。
コンペ。
コンペは何で負けたかよくわかんない。なあ。あの家やっぱりいいけどな。じゅんと設計しながらすごく楽しかったからまあいいけど、どんなの勝ったんだろ。
修制。
とにかく6/5から北海道とんで視察。なんでわざわざ制作というかたちでデザインを問題にすることが大事だと思ったのかを表現しないことには。いい手がかりがつかめそうな予感がしてる。とにかく現場行きます。
仕事。
おもしろい話が入ってきた。まずはリノベ?まだ具体的じゃないが、東京に種をまければいい。いい種をまきたい。世の中色々飽和しているように見えて、必要なところに必要な人材が全然行き渡ってないことに気づく。いい加減な建築家気取りが多すぎて、ひどいことが起こっている。そんなことを思った護国寺の夜。
まだ涼しい風が気持ちよす。
結局自分で決めれることなんてほとんどない。
もちろん、ポジティブな意味で。

ひとつの生き物



つい先日行ってきた、「歌舞伎座さよなら公演」。
歌舞伎座が改修されると聞いて以来、一度は見に行こうと、冬から立ててた計画がやっとのこと実現。なかなかチケットが手に入らず、仕方ないので一人で見に行くことに。やはり歌舞伎座最後の一ヶ月とあって、連日満員らしい。
駅降りてからひと、ひと、ひと。。で身動きがとれない。東銀座駅の小さな出入口がまるで祭りのように活気づく。老若男女、着物をきたり、華やかだねえ。近代化されていく建物にはさまれて、銀座側からちらりと見える歌舞伎座の佇まいが好きだったけど、改修案のパースを見る限り潔くもとの姿を失ったほうが幸せだったのではないかとも思います。どうなることやら。
席は三階席だけど花道の見えるいいところ。白浪五人男がばっちり見える最高の席。一番安い席にしては大満足。残念ながら講演中は写真とれず。名だたる役者のあの姿、ぜひとも紹介したかったが。
歌舞伎のあの気楽な雰囲気は、ちょっと緊張してしまうような現代演劇とはまた違う。周りのおじいちゃんやおばあちゃんなんて平気で居眠りしているし、かけ声なんかも、実際は特別な人がやっているようだけれど、面白い文化で、新鮮だった。そしてやっぱり身体の動きが、殺陣のシーンとか動きがだいぶ抽象化されてて、でもその抽象化が独特で面白い。滑稽という意味でも。


歌舞伎座はひとつの小さな街のようで、色んな立場の人が、それぞれに動いてて、そういう開放感がすごくある。役者がいて、色んな観客がいて、席を案内してくれる係員がいて、黒子がいて、売店のおばさんがいて、そうやって並べてみると、なんら当たり前のことなんだけど、なんでだろう、街のような開放感があるのは。みんな主役でみんな脇役な感じがすると言ったら、演劇モードに入り過ぎだろうか。最後の歌舞伎座を写真におさめた安斎重男さんは、歌舞伎座はまるでひとつの生き物のようだと表現していたけど、ああ確かにそういう建築ってあるなあと、もう少し言語化したいのだけど。。


次は海老蔵か。

本気でカメラが欲しくなる

同僚と朝から街に出て撮影。
円山町秋葉原神保町へ。
いろいろ建築の話しながら街を観察するのは久しぶり。
街に出れば飽きることなし。
 

北河原さんのビルはブリーズソレイユの間隔があまり見ないスパンで外観のシャープさが全然違う。と思ったら中はほとんどメゾネットになってるらしい。はずしが効いてるなあ。。

休日復帰

先週初の修論ゼミ終了とともに、変な風邪にやられて週末寝込んでしまった。
槇さん漬けだった先週だったが、先生にあっさりと指摘されて反省。
群建築、グループフォームの概念をとらえるにあたって、単体の建築の中だけで用いられてきた建築言語を見直し、複数の建築群や環境を構成する「空間言語」として見いださなければならない、という槇さんの話が面白いと思ったのだが、そこで槇さんが概念的に説明していた「空間言語」は水平面とか垂直要素、垂直面だとか、あくまでもモダニズム(特にカルテジアン座標)の域を出ないということ。(槇さん自身はモダニズムで良いとはっきり言っている)そして今自分がやろうとしている、ある全体性を生み出すためには、振る舞いだとか、やり方だとか、そういうものを導入しなければならないこと。最近興味を持ってずっと読んでた建築の自律性とか建築的秩序とか、そっちに少し引きずられすぎてたな。
今は、グループフォームは頭の隅においときつつ、気候という側面から全体性につながりやすい北海道の建築について調べ中。日本の北国の中でも特に北海道は、明治初期の開拓が19世紀後半だから、独自の建築文化が育つ時間がほとんどないままに近代化が覆いつくしてしまったわけで、本来なら気候についてあれこれ考えるだけでも面白い建築が生まれるはずなのに、そこを飛び越えてしまった感がある。集落のあり方で特筆すべきものも今のところまだ出てきていない。というわけで、まだまだこれから色んな提案がなされてしかるべき。気候と、人々の振る舞いや習慣と建築の間に、そして建築と街の間に、豊かな関係を生み出すための試みが、まだ手つかずの状態で残っているのだとしたら、これはまだやれることが色々ありそうだ。早速インタビューを手配して、研究を進めていこう。
今日は回復を祝って街へ。
21-21でクリスト&ジャンヌ。
これがなかなかいい展示で。包むというのは彼らの活動のある一部分でしかないのだけれども、包むことで対象との間に色んな距離をつくるのが面白くて、そのもののもつ特性が埋もれたり、際立ったり、ただの大きさと量にまで抽象化されたり、記号として純化されたり、鮮やかだった。建物を包むのだけだと思っていたから、単に異化の問題だけかと思っていたら、そうではなかったんだ。あとは時間と場所の問題か。彼らも「存在」についてとても敏感なのだろう。最近は存在の問題に触れているものがピンときておもしろい。ドローイングやコラージュが鬼かっこいい。表現はもちろん、サイトプランの置き方を教わりました(笑)それがまたうまくて。。
宮の森美術館作の旧パンフがとてもよくできていたので購入。
渋谷通に渋谷を案内してもらってお気に入りの店ができた。
今週は寝込んだ分取りかえさんと。

2010年は、まだまだ先だ。

前回の日記が一ヶ月前。
研究室で手伝わせてもらった住宅が、サイトで広告されて一段落。その直後に窓のリサーチ本が完成して、建築の”クリシエ”をテーマにしたエンリケ・ウォーカーのワークショップがあって、ある会社相手にプロジェクトのプレゼをして、映画を何本か集中して見て、何冊かの小説を読んで、1960年代以降の都市論を何冊かまとめ読みして、いくつか作品をつくって、突然始まったAAとのワークショップを楽しんで、彼らと別れたのが一昨日か。一ヶ月ちょっとはざっとこんな感じだろうか。
・分譲住宅のサイトはこれ。→http://www.yamatedai.net/hiraku/
実際には契約が完了してから実施設計に入る。
・窓のリサーチのまとめとして、今回は窓のもつコンセプトを抽出するということをした。コンセプトとして取り出せばそれは今度はそれがデザインの問題になることに気づく。窓のいろんな形式や大きさや厚さや、窓周辺のものとの関係は、その窓が何を扱い、何をしようとしているのか、どういう考えをもっているのかという視点でみると、いくつかのまとまりに見えてくる。この手続きは論文と同じだ。
で、原さんの「集落の教え100」はまさにコンセプトブック。あれは本当に面白くて、ほとんどのコンセプトは、人間のちっぽけな身体性なんかほとんど気にもとめないような、もっと大きな自然とか環境に対する知恵みたいなものとして提示されているところがいい。
そして先生によるコンセプトブック、「空間の響き/響きの空間」は色んなもののありかたやものとの関係についての想像力を開いていくことの驚きや豊かさ、知性が凝縮されている。「お面」と「居候」の考え方が好き。前者は定型の持つ豊かな意味や知恵を引き受けながら新しいものを生み出して行くことの楽しさと価値。後者は人間がある秩序をもった家に居候すると捉えることでより柔軟で寛容な、住宅と人間の新しい関係への眼差しについて。やっぱり何か人間が主役じゃなくてもいいような空間が、結局は人間にとっても息のつまらない、居心地の良さにつながるんじゃないかという考えは、卒業設計の時から続いているし、「deploma exhibition2009」のフリーペーパーに寄せたエッセイ、「身体性を超えて」というのは、そういうことに繋がっているんだと思う。
今はその辺の想像力をさらに切り開いて行くような、論考や言説を探しているところ。
・映画。「Les Parapluies de Cherbourg」、「life is beautiful」、「二十四時間の情事」、「我が教え子、ヒトラー」「The Shawshank Redemption」、「重力ピエロ」、「Cars」(笑)昔の名作とか全然見てないから、まだまだ時間がかかりそう。。
・AAとのWSはたった4日たらずだったけど相当楽しかった。実は想像以上に共通の意識を持ってて、誰と話してもここまでちゃんと建築の議論ができるとは思ってなかった。ロンドンには行ったことがないけれど、問題意識としてどこか似たものを共有しているんだろうなあ。
このWSは結果的に最終的なアウトプットもチームによって様々で、リサーチを通してどう都市を読んだかというような知的ゲームをするところもあれば、割に具体的なプロジェクトを提示するというのもあって、でもまあどのチームもとても興味深かった。「フォトコラージュ」が方法のしばりであったが、コラージュをつくりながら都市を読むというのは、まさに都市のあり方に身をおくひとつのやりかたで、今までとは違った、「コンテクストを動的に捉える」という感覚に少し近い。
とにかくロンドンの連中がもたらしたこの知的な刺激は、年末気分のゆるみかけた頭にはそれなりに効いたみたい。
自チームのリサーチ対象地区だった品川周辺は、よくよく観察してみると、もう悲しさを通りこして開き直って笑っちゃうくらいダメダメな都市で、いろんなことがうまくつながらず、いろんな時間がうまく噛み合っていない、そう映る。でもそんなことはおかまいなしに超優良企業のオフィスが次から次へと集まるし、相変わらず交通の要所としての重要度は増すばかり。かたや何千という豚や牛がトラックで運ばれてきては、オフィスビルの建ち並ぶそのど真ん中で食肉に変えられて行く。モニュメンタルな東口の広場は、強い軸性をもった道路が海岸まで開けていれば、まだリスボンの矮小番くらいにみなしてもいいのかもしれないけど、実際見えるのは東洋水産のビルとまるちゃんのマークのみ。これはもう笑うしかない。色んな力は持ってるはずなのに。そこで自チームは食肉加工場をリニアに駅と高層オフィス群、運河を横断するようにつきさして、ばらばらに孤立しているものを無理矢理衝突させるという提案をした。品川みたいに時間をうまく都市のなかに内包できていない場所を、東京のなかでもう少し発見できるとすれば、修士制作は何かそういうことをテーマにやってみたい。そんなことを考えている。
そう簡単に2009は終わらせないぞ。
品川4発







ミジカド09閉幕

横浜美術館で行われたチャリティーコンサートと展示が無事楽しく終わりました。
開場して最初のプログラム説明のときに今回の展示のことを言ってもらうなど、やっておくべき手回しがうまくいっておらず、それは反省。そういう仕込みは周到にしないとせっかく色んなことを考えて用意したものが十分に活かせられなくなる。
あのような場所で、建築のプロジェクトを伝えるために、じゃばらの絵本のような形式をとってパンフレットのように持ち帰ってもらう方法をとってみたが、それは見せ方として正解だったと思う。せっかく持ち帰っていただいたので、メールなどの反響がいただけたら嬉しいなあ。。
ひとつ気になったのは、会場の設営から展示物の管理、もののレイアウトに関して、致命的にデザインの思考が欠けていること。段取り含め。
ミュージシャンと色々話せておもしろかった。自分の周りにはあんまり本気で音楽やってる人がいなかったから。話してみるとやっぱり本質的なところは近い。作家についてとか、ものづくりの姿勢とか。音楽は乗り越えていくものだからあまり保存したくない。という言葉は新鮮だったけど。コンセプトではないんだ。彼にとっての音楽は。
目の前でかっこよく演奏する彼らの雄弁さと比べると、展示で建築をプレゼンする自分はちょっと分が悪いか。いやそんなことはない。ただ表現した空間の奇麗さとか、コンセプトを理解してもらった手応えは、確かに感じた。建築の想像力とか表現力で切り込もうというアプローチは、チャリティーコンサートという場所とプログラムに対して、結構いい刺激を与えられたのではないかな。
このアイデアが実際にハイチに送られるということなので、また人の心を動かすことができるといい。
打ち上げは合唱の嵐。乾杯も解散も全部合唱。ほんとに歌うのが好きなんだなこの人たちは。
こんな愉快なおじさんたちは始めてだ。色んな大人に出会えるのは刺激になる。素敵な大人がいっぱいいるんだ。若い人だけでも大人だけでもダメなんだな。