高円寺日和

目覚ましをセットし忘れたまま研究室の床で寝ていると先輩がギリギリのタイミングで起してくれた。外は快晴。体調は最悪。何はともあれ高円寺へダッシュ。
藤村さんの「Building K」内覧会である。
駅を飛び出し狭い商店街に入る。接道ギリギリにひしめく小さな商店の中にそれは突然姿を現した。
模型を作っていた時は気づかなかったが、高円寺の狭い道、商店のスケールにとってセットバックはかなり効いていてほとんど道の溜まり空間になっている。4本のコアのみの一階部分は非常にすっきりしている。近隣住民が安全確認をしたがるという話もうなずける。敷地の奥までガラスで見通せるのがとてもいいと思った。上部のガラスから奥の敷地の植栽などが顔を出す様子は新鮮だ。「Building K」は4面セットバックしており、隣地とは商店街とほぼ同じ幅の通路が取られている。この引きのせいで、ぐるりと回ったガラスの周りに光や空気がまわっているのが感じられる。晴れていたこともあって非常に明るく爽やかである。

全面ガラス、セットバックという「建ち方」はミニ・ハウスやアニ・ハウスで試みられた4面セットバックを商業・集住空間で実践、応用したものとして捉えることができる。一般の人は入り込めない個人住宅に比べ、商業施設はそのヴォイドが実際にその機能を支えるものとして有効に機能し得るし、店舗の在り方としても色んな使い方が想像できるという意味で、ヴォイドの扱い方としてレトリック以上の説得力がある。住宅規模の粒ごとの更新に加え、商業空間や集合住宅におけるヴォイドの扱いを考えれば、ヴォイドメタボリズムの文脈に位置付けられそうだ。(そしてあるスケールを超えると都市においてヴォイドはコア的なものに変化するということも言え、ヴォイドメタボリズムが循環する)町並みが変わっていく可能性を秘めていると感じた。

メガ梁が室内で露出しているのは、建築の在り方のヒントを示すためだという。だったらなんで廊下は見せないで室内だけ?って友達が言っていたが、それだとただの表現に回収されてしまう。室内なら棚にするなど、人間が関与できる。ということで納得。住戸部は面積的にはそれほど大きくなく、むしろ狭いくらいだが、玄関から廊下、室と全て微妙に天井高が異っていて変化がある。窓枠とかも細かい調整がなされており、高さの違う窓は高円寺の風景を切りとる。(窓枠が一回り小さいため正面からはサッシが見えない)

屋上は陽射しと植物、白っぽい外壁のせいか非日本的な感じ。奥の建物が5FLと同じくらいの高さで、かつ長手方向に抜ける路地からは高円寺の町並みが見えるので、端部にいかない限りあまり地面と離れている気がしない。まさに人工地盤。ちょうど高円寺の町並みがヴォリューム群と連続しているように見えてなんだか安心感のある高さだなって感じがした。駅のホームが見えたり景色は最高。

全体的に、様々な条件に無理なく最適解があてられているように見えて、その集積が無理矢理統合させられているのではなくドライにそのままたちあがっている感じ。違和感なく自然に存在しているように感じるのは、(自分が模型作りなどに関わっていたということがあるとしても)様々な潜在的なコンテクストが高円寺の町並みなどの顕在的コンテクストとともに拾いあげられているからなのだろうか。
東京の外から来た僕は東京を「都市」というひとくくりで対象化してしまっていたけれど、ここもローカルの集合なのだということを最近認識できるようになってきた。Building Kからもそれを強く感じることができる。それは同時に自分が生まれ育った場所と東京を同じ枠組みで捉えることができつつあるということかもしれない。まだ具体的に言及できないし、抽象的な言い方しかできないが、東京と郊外、そして自分が生まれ育ったような場所(東京に対する郊外とは鉄道の在り方から定義されると思われるから僕の地元釧路のような場所とは区別する必要があると考える。それについては「新・都市論TOKYO/隈研吾+清野由美」による。ちなみに、ここで隈氏が語る郊外、ヴァーチャリティ、リアリティに対する理解は僕の解釈と非常に近くて安心した。何か糸口がつかめそうだ。)を同時に捉えられる枠組みを見つけることができるんじゃないか。そう考えている。
K Buildingを見終わって、気づけば体調も回復、テンションもあがって先輩とゆっくり食事。行きはダッシュだったから気づかなかったが、駅のホームから良く見える。優しく佇んで見えるのは僕のひいき目のせいだろうか。
すがすがしく研究室に戻ったが、この後翌朝まで不眠で作業しなければならなくなることを、その時の僕はまだ知らない。。

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