建築夜楽校2/絵を描くのは誰か

先日の建築夜楽校「タワーマンション」に続く第ニ弾、「ショッピングモールとローカルシティ」に参加しました。
パネリスト
 ・中村竜治氏/中村竜治建築設計事務所主宰
 ・岩佐明彦氏/建築計画学者 新潟大学工学部准教授
 ・芝田義治氏/久米設計
 ・関谷和則氏/竹中工務店
コメンテーター
 ・若林幹夫氏
司会
 ・南後由和氏
 ・藤村龍至氏
(個人プレゼンではそれぞれの思想をわかりやすく伝えてくれましたが、各プレゼンの詳細は割愛します。)
議論は若林氏の「建築は経験である」「アーキテクチュアルな権力によって構成される空間の経験とが重要」というコメントと、中村氏がSC内にデザインした店舗を中心に動きだし、議論の大枠は藤村氏の提示した具体的な二つの問い
 1、建築が場所性にどう関われるのか。商業的な論理と場所性はどう結びつけられるのか。
 2、場所性についての論理をどう変えられるか。非オーセンティックな場所性をどう対象化するか。
をベースに展開された。
その中で建築的思考の可能性が介入できることとして明らかになった2つの具体的な軸は、「SCの内部空間/批判的商業主義」と「SCのストックとしての位置づき方」だと認識したのでその二つを語りたいと思います。
・一つ目はSCの内部空間について/批判的商業主義
ここでは、SCという小さな街における場所性や、そこにかかる制約を受け入れることを前提としつつ「アーキテクチュアルな権力によって構成される空間」でどのような新しい体験を生み出すことができるのかという問いに基づく。

中村氏のプレゼン。右が中村氏設計の眼鏡ショップ。店舗間の強烈なギャップが印象的。
唯一実績をもつ中村氏は、SCの内側から制約条件を再構成して空間をつくりだした。だがそこに現れる空間の経験は明らかに周辺の店舗とは一線を画している。本人曰く商業主義的なものと距離を取ろうとしたが、結果的に商業的成功を収めるものになったという。もう少し厳密に言うと、商業主義が現在持つ手法と距離を取ろうとした結果、新しい商業主義的な手法を発見したと言いかえられる。こうした建築家の姿勢は、批判的工学主義の範疇に入るのだろうけど、「批判的商業主義」と言えるのではないか。それは空間的経験と商業的効率・成果の関係性を見出して空間を再構成する立場で、中村拓志氏の「Lotus Beauty Salon」、藤村龍至氏の「UTSUWA」などがわかりやすい例だろうか。今までの商業主義の論理に空間的な経験という価値を組み入れることで、その店舗をより魅力的かつ機能的にしている。そこにはクライアントにも通じる開かれたロジックが存在し、かつそのクライアントや思想、条件などの差異を建築に反映しているという点で固有性を生み出しており、非常に面白いと思う。
ただ、SCに話を戻すと、あくまでもSCという小さな街の中での出来事であって、そのSCが建つ街との関係を考えると射程が短い。
・二つ目はSCの街での位置付けについて/非場所が非場所を生む?
先日のタワーマンションとの関係で語られるべきはこのトピックだ。タワーマンションがSCと決定的に異なる点は、公共物ではないということ。都市の景観問題として批判の対象になる原因はそこにある。その土地に住む人にはタワーマンションから何のメリットも得ないから。よって、都市との関係性において、建ち方や表層のデザインという問題が特に先鋭化する。先日の北氏のスタンスもそこに基盤がある。鎌谷君がレポートした批判的表層主義もそこに反応したものだし、海外の一部の建築家が非常に表層的な表現を試みるのも、明確な都市構造においてモニュメンタリティが意味を持つからである。
一方SCは公共である(と僕は認識している)。その巨大さが街となり、大衆のライフスタイルを巻き込み、地域の構造を大きく変質させる。若林氏も述べたように、内部空間において非場所と場所が相互補完するかたちで共存することは現代のリアリティだろう。問題なのはその非場所が、周辺をどんどん取り込んで拡大してしまう状況ではないかと考える。非場所を内包する巨大なSCが出現することで、その周辺が非場所化してしまう(ように見える)現象が起こっていることが注目すべきことのように思う。場所と非場所に関する議論では、非場所を対象化すると同時にその関係性を捉えることが課題だろう。最後に若林氏の指摘した「弛緩する空間」はその関係を捉える入り口になりそうである。
SCがストックとして、街を活性化させるものとして位置づくために必要なのは、当然のようだが具体的なものとの関係なのではないかと思う。SCはシステムとして自立しているが、既存のストックとwin-winの関係を持つように再編成することができると思うし、そうすべきだ。それが芝田氏の言う周辺の参加可能性でもある。
もうひとつ、建築家はSCの存在がどれほど街に影響があることなのかを訴えるしかない。そして「批判的商業主義」の有効さを認識させると共にそのなかで、SCの経済性や、大きな内部空間というものが郊外にできるということにどんな意味があって、街と連続することでどんな新しい価値が生まれるのか、その絵を描くしかないのではないか。議論をカタチに。なんせ今議論の中心であるSCの設計を任される建築家が、どこにもいないのだから。
ニ夜のシンポジウムを通して、現時点で建築がやらなければならないこと、建築にはできないことがある程度共有された印象を持った。もちろん、できないという結論に甘んじることはできないが、具体的に議論すべき論点がいくつかクリアになったのではないかと思われる。二回ともキーワードとなった「場所性」とは具体的にどこまでを含むのか、僕はまだうまく理解できていないが。自分自身例えば各都市における場所と非場所の関係はどうなっているのかなど、調べてみたいことがいくつか出てきたので、もう少し掘り下げて行きたいと思う。
有意義な議論が聞けて刺激になりました。

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