行事としての論文はここで締める

あまりにも論文にかかりっきりでご無沙汰してました。
研究室にはほんとに迷惑をかけてしまったけれど、17日の論文発表会を最後に、自分の無力さを痛感する通過儀礼としての論文はひとまず終了した。自分のものとして深めて行くには、これから先まだまだ長い付き合いになりそうだが。
梗概提出、本論提出、発表会という最後のほんの2,3週間で、自分の認識が一週間前のそれと全然違っている感覚は、驚きでもあり少々気味悪くもある。
論文で感じたこと。
言葉の差異と実際の空間の差異には埋められない差がある。今回自分は最後までそのように割り切ることができないでいた。屋根が水平っていったって、厚みとか光沢とか全然違うから同じとはいいたくない。。終始そんな感じで、似ているとはどうことなのかという視点が欠けていた。
言葉や概念はやっぱり独立した体系であって、建築的知識、知恵、経験、感覚の体系とは部分的にしか重ならない。そのことは体験的にわかった。そしてそれぞれのつくる認識がお互いの認識を相対化することに論文の意味があると今は理解している。(ただそれはすごくメタな次元の話で、こんなゲームみたいなことに何の意味があるのかと、論文やっている最中はよく思っていたが。。)
そして論文をどこまで共有できるものとして再編集できるかもこれからやりたいこと。メイド・イン・トーキョーみたいに。
もうひとつ感じたのは、自分でデータを集め、自分で分析することの強さ。時代と逆行しているから、ほとんど全ては参照で済ますんだろうなと思う一方、世に溢れるエッセイの類いが、いかに不確かな情報の断片を元につくられているのかが良くわかる。意匠論は全然サイエンティフィックじゃないけど。。世の中の文章を見る目が少し変わる。
とは言え、論文に関しては手を引かれてやっと入り口まで連れてきてもらったようなもの。せっかくここにいるのだから、そのなんたるかを自分のものにしてからここを出たいと思う。

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