圧倒的なもの

仙台負けました。
色々勉強しました。
敗因のひとつは模型をのぞかなければ自分の主張を伝えることができないこと。パネルとしてA1が10枚とかある時は、図面や絵で模型に人を導くことができたのに比べて今回はA1一枚。それに対する模型のインパクトとわかりやすさに欠けていた。700余の作品が集まるせんだいは無差別コンペのようなもの。伝わらなければ意味がない。誰も歩み寄ってはくれない。形態や形式のわかりやすさに頼ることなく、しかし圧倒的なもののちからと魅力をもつもの(両者は対立することでは決してないが)。バックグラウンドもプロセスもささいなきっかけとして消えていくような。
行き着きたいのはその射程。
伝えたいことは山ほどある。
一度立ち止まってもらえれば、その決断を後悔させない自信はある。
自分が建築に対して持っているリアリティと評価軸にいくらかのズレ、或は絶対的な断絶があるかもしれない。またそうであって欲しいと思う。
そんなことを問題にさせないくらいの、圧倒的なものをつくらなければならない、と強く感じさせられた、せんだい。
色々な主体にあっさり憑依もしくは変身しながらつかむ固有の身体感覚と客観性の間。そこにある現代性。一年前、始めたばかりのブログで主張した身体感覚と社会性の話は乗り越えた。
客観的。他人。そういうところからどれだけ建築を説明(というか表現)できるのか、全然うまく説明できなくて、キーワードも心もとないが、そういう関心を持っている。

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