完敗

親父と議論した。
建築にたくした夢を伝えたくて、建築と建築家の存在理由について述べたぼくの100の、いや1000の言葉は、親父が建築への期待について語った、たった一言の言葉の前に、みごとに崩れ去った。
それは単なる偶然じゃなくて、最近色々とつっかえていたことへのひとつの答えでもあった。
今年の春からは北海道大学大学院の観光学院というところの博士課程に進学する。建築をやりにそこへ行く。なんでそんなとこに行くのか。ずっとそう問われてきた。なかなかわかってもらえないだろう。そう思いながら、色んな人に説明するうちに、どう説明すればいいのかだけが少しずつうまくなった。でもそれはただの説明であって本質的じゃない。説明の仕方は、相手によって変わる。それでいいと思っていたのに、いつのまにか相手と自分が混ざってしまっていた。人に対する説得が、自分への説得になってしまっていた。そうじゃないはずだ。
建築について尊敬できる先輩と久しぶりに会うことになって、やっぱり同じことを聞かれた。「わかってもらえないだろうけど」、そう前置きしながら説明した。いいから5年後、いや10年後を見てくれ、そう言って逃げたかった。それは悪い癖だ。今日気がついた。別に亜流に流れるつもりも、トリッキーなことをするつもりもない。人がそう言うことに否定はしないが、地元に帰るというふうにも思っていない。北海道へのノスタルジーでもない。
ただ冷静に色々考えた結果、自分にとっては王道だと思った。色んな時代の流れやタイミングが垣間見せてくれた選択肢だと思った。それは立派な王道だと、その先輩はそう言ってくれた。その人がそう言ってくれたのは、自分にとって、塚本先生が背中を押してくれたことの次に大きかった。
とにかく色んな説明をしてきた。でもここではっきりと修正しよう。
建築の夢を、大真面目に語る。そのために行こう。色んな専門の人がいっぱいいる。建築ってなに?なにしに来たの?それにちゃんと答えないといけないと思って来た。建築の仲間で、こういうのがいい、これは自由だ、キレてる、そう言ってきたことを、何か別の言葉で伝えなければいけないと思った。それが異分野の人とのコミュニケーションだと思った。そのためにぼくは、知らないうちに、”正しさ”に頼っていた。でもそれは正しければ正しいほど、自己弁護に過ぎなかった。本当はそんなことに興味は無い。したいのは建築の、空間の話だ。
建築のことなんてわかんないだろう、無意識にそう見くびっていた親父に、はっきりと指摘された。同じ医者になったらずっと背中を追い続けなければならないだろう。多分、反抗期のいつかにそう思って自分の道を探した。それがこのザマだ。いつになっても100年早い。
そして問題なのは自分のこの傲慢さだ。
実にいいタイミングだ。2011年の3月10日。一から出直そう。

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