archiTV/宇宙とお金

様々な建築イベントが24時間ぶっつづけで展開されるarchTV。
今回初めて参加してきました。
今日の目当ては
・アニリール・セルカン氏による「宇宙と、建築」
・丹下憲孝氏による「お金と、建築」
セルカン氏は非常に多才。一度プレゼンを聞けばわかるが、知性とユーモアに溢れ、ものすごく頭がいい。


彼はトルコに生まれ、ヨーロッパ各地で好奇心の赴くまま、既存の領域に縛られることなく様々な技術を研究し、開発し、応用してきた。と書いてしまえばどこにでもいる優秀な一人として回収されてしまうけれど、その多才さと彼の活躍するフィールドの広さはまさに宇宙級だ。現在は東大大学院建築学専攻助教。
なぜ宇宙かというと彼の作品(どちらも本として出版されている)「宇宙エレベーター」と「タイムマシン」による。宇宙エレベーターは文字通り、宇宙に届くエレベーター。もちろん今のところ実在はしない。発想はユニーク。でもそもそも何の目的で?と思ってしまう人は自分の目をもう少し先の未来へ向ける努力をした方が良さそうだ。そう、彼の目は遠い未来に向けられている。
ある仮想を本気で実現しようとすれば、様々な技術を新たに開発する必要に迫られる。事実、彼はこのプロジェクトに際して実にたくさんの新しい技術やアイデアを生み出した。このプロジェクトをきっかけに生み出されたたくさんの新しい技術たち。それをまた別の見方でどう応用できるのか、その視点がまた新たな可能性を生みだす。だからぶっちゃけてしまえば仮想は何でもいい。そこに絶対はない。強いて言えばそこにロマンがあるかどうか。無理だろうと思われることに本気で取り組む時に生まれる様々な技術がまた新しい未来を描く。彼の原動力はその好奇心が全てだ。
建築に関連する提案はインフラフリーハウスというもので、技術そのものは興味深かったが、建築との関係を議論するまでには成熟していない印象を受ける。僕の解釈では、個々の住宅レベルで自律的なインフラを持つ家を指している。もちろんその自律性に関する技術がまた興味深いものだったのだが。。インフラの自給自足と言えばわかりやすいだろうか。そんな彼の言うこれからの三種の神器は「energy,water,food」だそう。なるほど。
とにかく彼の物事を考える姿勢とそのスマートな切り口にただただ圧倒されるばかりであった。その領域を軽々と飛び越える姿にクリエーターとして尊敬する。最後に彼がくれた言葉…
            「Did you ask a good question today?」
              (人間にも、そしてgoogleにも)
丹下氏の「お金、と建築」はまさに先日の建築夜楽校の延長。

金持ちになりたいなら建築家をやめなさい。話はそこから始まった。クリエイティブに建築をつくろうとすれば膨大な時間と労力が必要となる。契約上支出と収入のタイミングのズレをマネジメントしなければならないし、コンペは勝たなければ時間と労力は報われない。加えて特に海外における建築の契約は日本の常識と大きく異なり、しまいには政治にまで翻弄され、99%つかんでいた仕事ですら平気でポシャる。そのマネジメントは非常に難しい。
それを支えるのは建築をつくる達成感と建築への情熱だけだと力強く語った姿が印象的だ。
ディスカッションタイムにおいて、archiTVの用意した3つの議題は残念ながらほぼ機能していなかったが、それでも議論はグローバル化する経済や設計を取り巻くスピードの変化の中で、建築家としてどんなテーマを持ち、かつ地域性に対してどういうスタンスをとっているのかということに集中した。それに対しては、グローバル化するほど地域性は重要になり、その場をつくっている本質を見抜きながら、やはり人間が気持ちよいと思える空間をつくることが最大のテーマだということだったが、言葉の節々に感じられた選択可能性を担保することの重要性のほうに注目すべきかもしれない。
その地域だけを凝視するのではなく、一度世界に目を向ければ地域性は発見できるという言葉は世界30ヶ国以上でプロジェクトを行っている彼ならではの実感なのだろう。
「デザインは自分の中にあるものではなく、クライアントやその場所にあるものだ。だから自分を作家だとは思っていない。建築言語はグローバルなランゲージだからそこにコミュニケーションが生まれる。その中でクライアントにどれだけ満足してもらえるか、それが最も大事だ」という姿勢は先日の山梨氏のスタンスと非常に近いとともに、シンポジウムでは迫りきれなかった建築的思考の可能性を示唆するヒントが含まれていると感じた。
現実に様々な条件や力に向き合いながら、建築が持つ豊かさを実現しようとする姿勢には、そこに集う学生達の背中を押し出してくれているような包容力があった。
こうして僕のarchiTVは(勝手に)終わりを告げたが、他大の学生と交流できたことは良い刺激になった。ブログでの発信も、もっと多くの人と話をするきっかけになればいいと思う。

建築夜楽校1/愛される建築のために

2日。建築学会主催の建築夜楽校2008に参加してきました。
二夜にわたるテーマは「グローバル社会における『建築的思考』の可能性」。
シンポジウム第一夜は「タワーマンションとグローバル・シティ」。

自宅のある武蔵小杉に出現したタワーマンション。東京に出てきてわずかの間に目の前の風景は激変。
その一部始終を体感した。

パネリスト
 ・迫慶一郎氏/SAKO建築設計工社代表
 ・大山顕氏/サイト「住宅都市整理公団」主宰
 ・山梨知彦氏/日建設計設計部副代表
 ・北典夫氏/鹿島建設・プリンシパルアーキテクト
コメンテーター
 ・東浩紀氏
司会
 ・南後由和氏
 ・藤村龍至氏
アトリエ系、組織事務所系、ゼネコン系、ライターなどバックグラウンドも建築にたずさわる状況もみな異なる。それぞれが意識的に自分を位置づけるプレゼンを行ってくれたので、立場の違いが明確になる。
主張を要約すると…
 ・迫氏は中国を中心にタワーマンションなど超大規模プロジェクトを手がけ、東京の約三倍というスピードのなかで建築をつくる困難や先鋭化する問題を語り、「強い建築」を目指していると述べる。
 ・大山氏は”観察者”として工場や団地、ジャンクションなどある種都市の中で自然化したように見える都市構造物への萌えを語る。この”自然化したように見える”ということが後に重要な論点になる。
 ・山梨氏は様々な条件を再構成し、建築を含めた全体をシステムとして提示することが自分のやるべきこと だと語る。最適解の集合として提示されるシステムは、タワーマンションという前提を受け入れながらも既存の枠組みを改変しつつ新しい可能性を示唆。作家としての自分自身では完結しない広がりを持つと語る。
 ・北氏は建築的美学という観点からタワーマンションを手がけ、商品としてのマンションの要望を満たしながらも、建築の佇まいやプロポーション、ディテールなどに現れる、美しいということのサステナビリティを語る。
議論の構図上、皆それぞれの役割を意識して自分のスタンスを明確に表現しており、東氏・南後氏・藤村氏を交えた議論が進む中でしだいに論点が明確になってくる。
大山さんの萌える基準についての議論は、人間のコントロール下にあるものに対して抱かれる”美”と、人間のコントロールが及ばないものに対して抱かれる”崇高”の話へ発展し、もはやコントロール不可能な金融や経済の論理から生まれるタワーマンションなどの建築を建築家が作家としてどうコントロールするかという問いは無効であるということが明らかになっていく。
ではそのようなコントロール不可能な力の前で建築家がすべきことは何か。
それはグローバルで巨大な力によって生まれんとする建築を、前提を再構成しながらできるだけサステナブルなものとしてその場に定着させることではないか。そしてそこで生まれる差異が、自動的にできてしまうように見える建築をその場に位置づかせる契機になるのではないかということまでは共有されていたと思われる。各々の建築家を見てみると、設計のアプローチは異なれど、それぞれに自分の信じるサステナビリティへの関心がうかがえる。
迫氏の言う「強い建築」は、都市化が猛スピードで進み、周囲が変化し続けるであろう中国において彼が見出した、ある種規格化された設計手法やグラフィティカルなファサード表現など、周辺の開発を誘導し、かつ周辺住民に受け入れられるための戦略である。
山梨氏の言うシステムはタワーとして計画されていたものが最終的に低層のボリュームに再構成されたなど、建築的思考が持続性のあるシステムを生み、プロジェクトの在り方を変えた飯田橋ファーストビルの例が強い説得力を持っていた。(しかし、建築の発想がユーザーとオーナーという立場からに特化しているように見え、できたシステムそれ自体は完結するように見えたのが気になった。)
北氏が主張する美しさのサステナビリティは、地域性との関係について明確な話はなかったが、建築が都市にどう現れるのかという関心は山梨氏と対比的に見ても興味深い。
それぞれのサステナビリティに対する取り組みがグローバリゼーションと地域性を考えるうえでひとつのポイントになる。今回のテーマ、タワーマンションというビルディングタイプを通して先鋭化した問題の一つは、サステナビリティと地域性であった。
言い換えれば皆それぞれに「愛される建築」を目指していると言える。これは当たり前のように思えて、実はとても本質的な認識なのではないかと思う。愛されるとは位置づくということ。位置づけば建築を使う主体や使われ方は発見される。グローバルなフローによって生まれる建築の持続性の鍵はローカリティにある。ひとまずその認識のもとに、どういった可能性が見出せ、どんなローカリティが建築の設計時に先鋭化するのか興味がある。またその際に、経済や法規といった実際の様々な深層的条件と直接対峙することのできない学生の立場としてどういうスタンスをとることができるのか、考えてみたい。
様々な立場で実際に設計に関わっている方のレクチャーは本当に刺激的で興味深かった。
次回の「ショッピングセンター」が非常に楽しみです。

夜歩

月の綺麗な夜。

小杉のタワーマンションにも、愛着を感じてしまうくらい。

とにかく色んな感覚を刺激したいという…

ここ数日の間、自分の身体を通した色んな体験が、ひとつひとつ身に染みていく感覚が心地良くてしかたがない。そんな数日間の濃縮された刺激のお話。
4日木曜日。
アトリエワンのオープンハウス+外構工事手伝い。神奈川のはずれに建つセカンドハウス。ちょっとした団体旅行みたい。
木材買出しに行っていると内部見学のタイミングを逃し、外観だけ拝んで外構工事(草むしり)に没頭することになってしまう。
…生々しい植物の匂い。
住処を追われ騒然とする虫たちを相手に、虫取り少年の懐かしい感覚がよみがえる。いちいち「○○がいる!」と見せびらかすも、周囲との明らかな温度差を感じ、一人ではしゃぐ自分が少し悲しい。
ササキリもヒメギスもイナゴもショウリョウバッタもツユムシも皆同じに見えるのだろう…かわいそうに。
そんなこんなの最高なアウトドアライフと程よい(いや、結構きつい)肉体労働をこなすと、気付けば庭は見違える状態に。四角い敷地に三角形のプランの意図が明確になる瞬間。
雨戸のような戸を開け放つと信じられないくらい開放的な空間が現れる。完全な外部。窓サッシ枠が無く、建具のレールが一本というディテールと、その境界におちる柱の存在の重要さに気付く。モルタル床暖もいい。まったりバーベキューで一階の空間を満喫したおす。
帰り道、初めて運転した深夜の246もかなり強烈で魅惑的な体験。深夜の東京を我が物顔で行くタクシーの群にかかんに飛び込む。
5日金曜日。
突然の打ち合わせ。4年担当のプロジェクト。いつもと違う場所で、いつもと違う雰囲気で、色々な人に出会う。相当刺激的でおもしろい。学ぶことも多い。積極的にかかわっていきたい。
6日土曜日。
学芸大学散歩。学芸大学駅で降りたのは初めてだったけど、東口の商店街はなかなかいい。人通りも多くにぎやかななか漂うどことなく控えめで上品な感じ。駅から離れるほどよい(笑)






そんな商店街を抜けて小さなギャラリー”YUKARI ART CONTEMPORARY/施井泰平展”へ。大きなテーマは「ネット時代におけるアート」だそうだが、うーん。。そういうことなのか。
虚の空間やデータベースを表現したようなもの-鏡や壁一面に配置された文庫本の背表紙-と実際にそこに存在しているリアルな物質としての実-わらや卵-が一枚の壁を隔てて不均等に置かれている。虚と実を対比的に表現しているのだという。
…もはや虚と実が単純な二項対立でないことは言うまでもない。両者は限りなく接近かつ融解しており、それぞれの存在が相互依存している。現実のマテリアルである文庫本の背表紙が配された壁は本棚のそれに近いが、荷重を支える横板が無いという点で決定的に違っている。実際のものを使って虚を表現する、或いは虚に近づこうとする試みそのものが興味深い。つまり、対比はすでに、リアルなもので虚を表現するという行為そのものの中に内包されている。ということか。
そんなふうに頭の体操をしながらふらふらふらふらしていると、あっという間に、また一日が終わる。
色んな出会いに感謝した週末。

東京観

久しぶりの映画館。
観てきました、「TOKYO!」。
MICHEL GONDRY・LEOS CARAX・BONG JOOH-HOの三本立て。
MICHEL GONDRYにかかればtokyoはああなるんだね。
恋愛睡眠~といいやっぱりいい。
色んな理不尽とか問題はあるんだけど、全然アイロニカルじゃなくて、東京だって、そこにいる人間でしょっていう感じに好感と共感。いつかの「装苑」で見たけれど、都市をみて(もちろんそれだけじゃないのだろうけど…)あれだけ人間を描けるのはすごい。日本人の描きかたが最も日本の映画監督のそれに近い感じがする。だからというわけではないけど素敵な東京。内からじゃないと描けない東京。一番いい。
LEOS CARAXのメルドは、パロディ調だけどそんなフィクションがなにか本当に起こってしまいそうな、それに対してすんなり、そして大真面目に応対してしまいそうな東京の空気を濃縮したようなもの。。でもいわゆる外国の人が東京に抱くイメージっていうものから抜けてない感じがしてちょっとものたりない。。
BONG JOON-HOの映画はみたことなかったけど画は透明感があってきれい。ひきこもってたらまわりがひきこもってても気付かないよね、そりゃあ(笑)地震でひきこもりが皆外に出てくるのが示唆的。ミステリアスな雰囲気がいい。
なんかわかんないけど愛すべき東京。生まれも育ちも違って、いわゆる都会の洗礼を受けながらたまに感じる居心地の悪さも含めて、決して座り心地のいい椅子を与えてはくれない東京が、やっぱりすごい楽しい。かな。
tokyo tokyo tokyo

切実さとは

友達に連れられて、「ミジカド-mizik(音楽)+kado(贈り物)-」というチャリティーコンサートに行ってきた。
ハイチに小学校をつくるなどの支援を行っている「ハイチの会」という組織が主催している。ハイチは内政混乱・物価上昇・高失業率・ハリケーンといった天災など、非常に多くの深刻な問題を抱えているらしい。
セスラというのはマリクレールという方が自邸を開放してつくったハイチの学校(といっても最低限の設備すら整っていない)のことで、500人もの子供たちの教育を支えている。しかもほとんどの生徒は教育費を納めることができていないという。
「セスラの会」とはそんなハイチに対し、教育体制の整備などをはじめ、様々な支援を行っている組織である。
誘ってくれた友達の友達が参加するというのでたまたま便乗したわけだ。
魅力的なみなさん

参加したのは5つのバンドで、若い人たちが多く、非常にパワーがあった。久しぶりに生の演奏を間近で聞いて、正直技術的なこととかあまり自分はわからないのだけれど、ものすごい衝撃を受けて、数え切れないほど鳥肌がたち、三回くらい本気で泣きそうになった。
皆生き生きと輝いていて、何よりも心から楽しそうだった。
自分の身ひとつが全てという表現者の切実さとそうであるがゆえの強さが伝わってきた。
「ハイチの会」の活動も切実さに溢れるものだった。その切実さがこれだけ多くの人々を動かしている。
今建築家が、建築界が考えていることにはどれだけの切実さがあるのだろうか。建築学生の僕が今まで学んだことといえば、思想的な部分に終始していてテクニカルなことはほとんど身についていない。アプリケーションがいくつかできるようになったぐらい。そしてあまりにも本物に触れていない。自分が語る都市とは何を指すのか、そのどこまでを実感として理解しているのか、非常に危うい。プロフェッショナルになるにはこのままではいけない。
トウキョウ建築コレクションで東工大の吉田先輩が、日本の学生は抽象的思考が好きでエンジニアリングに無頓着だし、社会に求められていることを理解していないと批判していたのが心に残る。
親父がイルファーというNGOの釧路代表を務めていると前にブログで紹介したが、具体的な活動のひとつとして、毎年ケニアで行われるメディカルキャンプがある。世界中の医師・看護師・針灸師などが有志で参加し、1~2週間にわたり普段病院に行けない貧しい人々の診療と治療をひたすら続けるものだ。近代化の進むケニアの首都ナイロビの周辺には相変わらず劣悪な環境のスラムが広がっている。エイズも非常に多い。脚を切断するしかないほど化膿を悪化させて診察に来る人がいたりと、そこには衝撃的で生々しい現実がある。僕もまだ写真と話だけで、残念ながら実際に参加できたことは無い。
でもそこには建築家のプロフェッショナルな能力が必要とされていると強く感じている。そこにあるもので、最低コストで仮設の空間をつくるためのテクニック、その空間をいかに人にとって魅力的にできるかというデザイン。設営の楽しさとか作業の共有可能性ももちろん必要。いつか自分がやらなければならないと勝手に使命感を感じている。ちょうどキャメロン・シンクレアがそれを誰よりも敏感に感じ取り、先んじて実行したように。

小旅行

午前中に起きて突然思い立ち、21-21・「祈りの痕跡展」へ。
久しぶりに街に出るとわくわくして仕方が無い。気温も下がってきて外に出るにはいい季節になってきた。気がついたら陽射しは秋のそれに近づいている。忙殺されて気付けば夏が終わりかけているが、僕にとっては都合がいい。それでもまだ暑すぎる。。
展示では文字はもともとは三次元なんだという当たり前のことに改めて気付く。微差がありながらも同じ形式を守り、大量生産して羅列するものが多かったのは、まさに文字(記号)の特質そのものだから。元棟梁のおじいさんが引退後、雑紙でつくり続けたという封筒(5,000枚!のうちの700枚が展示)は不思議なオーラを放っていた。
ナポレオンの腕木通信という面白いものをはじめて知った。
21-21は今までにも何度か足を運んだが、空間の構成が建築によって強く主張されているから、それぞれの場所性が強すぎて、違う展示をやっても逆に均質化してしまっている気がする。動線が一筆書きだからシークエンスも一緒だし。動線は同じく一筆書きでも、僕が大好きな神奈川県立近代美術館は、各場所が個性のある非常に豊かな空間を持ちながらも切り替えと連続にリズムとタメがあって、もっと自由な気がする。ストーリーが常に再構成可能な、離散的な方が面白い。21世紀美術館とかやっぱりいいと思う。


学校に戻り先輩が担当する住宅の見学へ出発。上棟が済んだ段階。数字で聞く延床面積と目の前にある建築の広さが一致しない。一般的には決して広くない面積だが、縦長に抜ける空間はかなりインパクトがあって気持ちいい。模型作成時から思っていたが、小さい空間に大量の言語が投入されていてかなり挑戦的な建築である。竣工時も是非見に行きたい。
その後は塚研先輩同期とぶらぶら。 ノリでおみくじひいたら大吉だった!
いいことしか書いてなかったからお守りにします。
注意書きには…
「大吉だからと言って、油断したり、高慢な態度を取ったら凶に転じます。」だって。気をつけます(笑)


休憩に入ったカフェで建築談義。非常に面白い。ラフに言うと、建築は当然、社会制度・経済・法規といった様々な条件と向き合うことになるが、そういった部分と建築の空間を考えるプロセスは一度切断した上で、空間で思考・解決する方が建築的イマジネーション(空間的思考)を発揮でき、自由な空間をつくれるのではないかという考え方と、それを建築設計のプロセスに組み込むことこそが新しい建築の可能性を開くという考え方に分かれる。
この議論の伏線は建築が効果という言葉で説明されるという点にある。自分なりの解釈では
・前者は後者に対し、できる空間が目的を叶えるために奉仕するかたちになり、デザインの質や身体性は改善されていたとしても、よりストレスレスな、身体に優しい強力なアーキテクチャーの構築に加担しているに過ぎないのではないか、と主張。
・一方後者はその効果を生むため、経済などの条件と格闘するプロセスを設計に組み込むことが新しい建築の空間を生み出す可能性をもっていると主張。
自分自身はどちらかと言えばやや後者寄りだが空間のイマジネーションがつくり得る建築の、自立した価値体系も必ずあると信じている。ただそれだけで経済等を相対化できるというほどの信頼は持っていない。後者は建築を社会に接続するために有効で、かつそういった社会のダイナミズムとのコミュニケーションから新しい建築像が現れる可能性も感じる一方、それが単に建築が人間をより効率的にコントロールするためというロジックに回収されるのを乗り越えないといけないだろう。こういった視点で現在の建築の状況を整理しなおしてみようと思う。

一息



立て続いた研究室のプロジェクトデッドラインから今日の院試終了まで、どこで切り替わったのかわからないまま一ヶ月があっという間に過ぎてしまった。色んなことがありすぎてとにかく時間が無いことを痛感するこのごろ。
それでもどうしても焼肉とビールを求めていつもの焼肉仲間と行ってきました。息抜きって言葉はもっともらしくて危険です。
ダメもとで誘ったが、偶然予定が合う。
着信があっただけで焼肉行きたいのかと見抜かれた(笑)さすがです。
就活の話とか聞くと自分の立場が痛いほどよくわかる。なんでもない身辺話が普通にできるのが嬉しい。小杉の友達がどんどん巣立っていく。新しい焼肉仲間探さねば。
おかげで切り替えできました。今日は早く学校行かねば。行けるか?わからん。。
友達と焼肉行って自分家で寝るというなんでもない日常のようなことが特別なニュースになってしまうという日々の生活。
まあそんなに悪いとは思っていないが。。やはり日々の足跡をなんとか刻みつけないと思考停止のまま時間に流されてしまいそうです。反省。熱く、前向きに。おやすみ。

丘を目指して/多摩美術大学図書館

11日、夕方学校を抜け、多摩美へ向かう。
菊名でJR横浜線に乗り換えて橋本へ。序々に風景が郊外っぽく変化していくのを感じる。どちらかというとなじみのある風景。橋本駅で降りてさらにバス。多摩美関係のバス停がいくつもあってどこで降りていいのかわからなくて焦る。が、バスの運転手に色々質問する感じはちょっとした旅行の感覚を思い出させた。また旅をしたいという強い衝動にかられる。多摩美の図書館が見えてすぐにバスのブザーを押したら、学校の入口から遠い中途半端なところで降りるはめに。
まさに「丘」としか言いようのない丘がぽこぽこ重なりあうようにして風景ができている。日は暮れかけていたけどすごく気持ちがいい。正門を抜けると左手に少し急なスロープが伸び、矩形の建物が丘の上にランダムに建っている。その一番手前に多摩美術図書館がある。

図書館は斜面を飲み込んでいて、外壁と平行に伸びる外のスロープと非常にいい関係をつくっている。天井は水平だからスロープの終わりほど天高が低い。天高の大きな手前の空間はテーブルや丸い球状の椅子が散らばって人の居場所ができている。梁にはスクリーンやプロジェクターが隠されていたり。斜面を利用して客席をつくったりできるのだろう。広い空間において自由に移動できる家具が人の動きの軌跡をとどめる様子は西沢立衛氏の30代建築家100人会議の時のスツールを思い起させる。

ガラスで区切られた図書館領域へ入ると新刊雑誌コーナーと個別AV、PCスペース。斜面に沿ってにまばらな映画館の座席みたいにブースが並ぶ。椅子が気持ちよくてきっと寝てしまいそう。スロープを下りきった隅に大きなベンチのようなベッドのような家具。普通に学生が寝ている。いつも誰かかれかが横になったり普通に寝たりしているらしい。公共の施設には寝そべったりする場所なんてなかなか無いから、いい場所だなと思った。ガラスの向こう、外の芝生にも学生が寝そべっている様子が目に浮かぶ。丘がそのまま建築に取り込まれたような連続性のあるのびのびとした一階。
二階は一階とうって変わって、非常に静かで落ち着いた雰囲気。行った時間帯(夕方)も関係あるかな。二階の床は水平だから、一階と比べると視線が自然に上に向かうように錯覚して、とても大きくてすっきりした空間に感じる。実際天井は高いが。単純な幾何学で制御されないアーチは居場所によって色んな重なり方をするからおもしろい。樹々をすり抜ける感覚と似ている。夜だったから外はあまり見えなかったが、樹々の葉が近い。景色が開ける側と、大学の建物やキャンパスなどが見える側では全然見え方が違うのだろう。外周にまわされた外向きの机が気持ちよさそう。昼間を想像してみる。イチョウの葉のようなプリントが施された大きなカーテンから透ける光は、学生の間でも評判がいいそうだ。
中をぶらぶらする。緩やかに曲がる本棚に沿って気付かないうちに結構歩かされている。緩やかな曲線を描いて伸びる低い本棚ごしに全ての空間と外の景色が見渡せる。うねる本棚とアーチが生む体験は新鮮。

本棚が低いせいで、大型の美術書なども全部しゃがんで見て取り出さなければならず、不便な感じもするが、一方で低さゆえに本棚の上に本を広げて眺めることができたりという振る舞いが自然に生まれていているのはいいなと思った。
ただ、二階建ての閉架書庫が奥に詰め込まれていたり、カウンターまわりにいわゆる普通の背の高い本棚がズラッと並んでいるところとか、図書館としてうまくいっているのかは疑問が残る。全体的に図書館という機能や物理的な本の存在は二次的なもので、中身は何でもよさそうに見える。本棚のスタディも、建築がフィックスしてからの話だったように思う。そういう意味でこの建築は自立している。建築が自立する自由さと脆さみたいなものを感じた。建築の性能だとかその使われ方だとか、そういった要請や条件は決して建築をつまらなくしたり、不自由にさせるものではないだろう。それらが両立する状態、補完しあう状態というのが必ずあるはずで、それは単に合理的という言葉では説明できない豊かな状態を生み出すはずだと思うのだが。
多摩美内をふらふらさまよった後、テキの友達の展示を見てそのまま一緒に居酒屋へ。独特なマイペース感は話していておもしろい。
終電手前で学校に戻る途中、JA70刊行記念パーティと称するものがまさに始まろうとしていると後輩から聞き待機。こぢんまりと集まった4人でさっそくJA70について議論。大いに笑いながら議論はすすむ。早く手に入れないと。
解散後は研究室で朝まで一人模型作り。別に一人で頑張っているのだといいたいわけではなく、ただ夕方抜けた償いに、飲んだ体で仕事をやっていただけのこと。。
建築も見れたし、刺激的なことが目白押しな一日でした。

ザハ/過去の設計から見えること

午前中にザハのシャネルパビリオンへ。

藤村さんの呼びかけで15人くらいの建築学科生が集まっており、僕は初対面の人が多かったので色々挨拶。ザハ建築を実際に目にするのは初めてだったが、ぬるりとした物体が代々木体育館のそばに横たわっているのはすごい光景だ。どうしてもテーマパークのアトラクションのようにやや安っぽく見えてしまうのは、周辺があっけらかんとした公園だからか。東京より一足早く公開された香港の映像を見ると、光り輝く高層ビル群に囲まれている光景は圧巻で、そういうシーンの方がかっこいい。日本にはこれほどの規模のものを許容する空間が都市の中になかなか無い。(香港も港付近だったが)移動パビリオンの一連の移動は各都市の構造や性格の違いを浮き上がらせてくれそう。新宿とか銀座のど真ん中にあることを想像すると楽しい。六本木とか?
外装はFRPと聞いたが、あのパビリオン全体でなんと20億円もするらしい。。
以下、簡単な感想。
マネキンのようなスタッフが入口まで誘導。渡されたMP3から流れる小野ヨーコ(?)の不思議な声に導かれ、前の人と時間差で一人ずつ中へ案内される。MP3の誘導はザハの建築がもつ空間の流動性とよい関係を結んでいるとは言い難く、身体は拘束されるがごく普通の音声ガイドの域を出ない。同じ音声を時間差で聞いているので、同じ動きを時間差でほぼ無限に繰り返される光景やそこで生じる各人の反応-しだいに指示を無視しだしててきょろきょろする人、わき目もふらずまじめに誘導される人、最初から笑いだす人-によって色んな個性の発露が垣間見られる様は興味深い。うねる壁が腰掛になったりテーブルになったり、自然に身体に寄り添ってくるような感覚は新鮮だったが、展示が区切られていて見通せるパースぺクティブが無いからか、CG動画で見られるような流動性はあまり感じられない。ひとつながりのぬるっとした空間に対してアート作品が「点」なのが気になった。個々のアート作品にはいくつか気になるものもあったけど、特に後半は空間も間延びして(少しずつ明るくなっていくから?)、緊張感を欠いていたように思う。夜の方がいいかも。
夕方から研究室の新歓プレゼン。
学校の設計課題3題とコンペ作品1題をプレゼン。設計課題をさらっと説明し、全ての設計を通して社会の中でどう建築が位置づくのかということが常に自分の関心にあるとまとめた。かなり漠然としたままであるが。。藤村さんからは、形式性が強く残っているように見えるが、形式についてどう考えているのか、それが社会との関係を語る上でどういう意味を持っていると考えるのかと問われる。
形式は様々な条件を、建築に変換するための「仮定」であり、そのスタディを通して全く別の形式に移行するかもしれないし、形式の純度が落ち、形式があやふやになっても構わない、つまり形式性が明確に残ることを意図しているわけではなく作業仮定とも言えると応答。ただその形式の飛躍や新しい建築言語が生まれる前に設計が完了してしまっていることも事実。結果的に形式が強く残る。自分も設計しながら自分が仮定した形式から結局抜け出せていないことを歯がゆく思っていた。結局全て内部の空間体験から形式を導いているのではないかという指摘も確かにその通りである。緩やかにカーブする壁、不定形なグリッド、折れ曲がって積層するスラブ…全て内部の体験を考えたうえで設定された形式だ。果たしてそれは社会と建築を結ぶものとして説得力を持ちうるのだろうか。
形式の設定が内部の体験に依るものであることの結果として、外観が無いのでは意識されていないのではとの指摘も。確かに自分は建築図面で表現される立面をあまり信用していなかったように思うが、外からどう見えるのかも体験だという先生の指摘は示唆に富む。
過去の作品を並べると見えてくることがある。建築の形式性と外観について大いに考えさせられた一日だった。貴重な時間を割いてくれた先生や先輩たちに感謝。