あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか



村上春樹。
大学入って初めて読んだ衝撃。彼の作品は結構読んでる。
最近読んだ「TVピープル」。
物語ってどういう風につくられていくのだろう。
素朴に心から不思議だ。
作家はどんな哲学や思想があって、どんな直感やひらめきというか身体感覚を持っているのだろう。
建築より文学のほうがより私的で自由な気がしてしまうが、それは素人の勝手なイメージなのだろうか?
ついこの前、吉本隆明さんの「日本語のゆくえ」を読みました。
装丁が気になったのと、帯にあった『いまの若い人たちの詩は「無」だ。』
というフレーズに魅かれたのと、なんだか人ごとでは無い気がして…
若い人だからではなく自分が作家という人種であろうとするならば、という意味で。
なにか自分が見たことないようなとてつもなく広いフィールドが広がっていることを感じてしまった。文学と作家の関係はどうなっているのだろう。建築と建築家の関係が抱える色んな矛盾や問題、魅力と何か似たような関係であるようにも、決定的に違う面をもっているようにも思えてくる。「新しい文学のために/大江健三郎」、「一億人のための小説教室/高橋源一郎」読み返すべきかな。当時は共通点ばかり見出していた気がするが。。
作家と作品の関係はそれだけでひとつの学問になってしまうことだけど、その関係性、スタンスが全てだと言っても過言ではない。最近よくそのことについて考える。
「作者の人間像と作品の主人公の像がどんなに似ているように思われるときでも、それが違うように描けている。」ことが近代文学の条件の一つだという。現代文学は?建築は?

コンペを通して思う

三井のコンペ(3/31締切)を終えて。といっても時間的に提出締切日が終わっただけで、自分が参加したわけではないことを先に言っておかねば。。
一週間ばかりを費やした九州旅行(これだけ短期間に多量の建築を見ると興奮とあまりの情報量に頭がパンクしそう。まだ全然消化できてない)から3/24に東京にもどり、結局実家に帰省する時間とお金が無いことから断念し、ふと思い出した三井のコンペ。締め切り時に帰省予定だったためあまり頭になかったが、なんとか出そうと途中まで考えたこと。
三井コンペ(三井住空間デザインコンペ)は分譲するマンションの一室をデザインするというもの。今回が第5回目で、毎回テーマと面積が異なる。今回はプレファミリーや若いファミリーを対象に親と子が新鮮な感性を育みながら生活するためにうんぬんというテーマ。床面積約80㎡。初見より、子供と親という提示された関係を、いわゆる文字通りの小さな子供と若い親として対象化し、どうやって豊かな関係を持ちながら楽しく生活するかということで考えをスタート。非常に柔らかいテキスタイルのような間仕切りや腰壁による分節、床座中心のライフスタイルの提案などいくつかの方針案…ただ途中で、自分がイメージし、映像化の対象にしていたのが先に言った通り若親と小さな、それこそ幼稚園児とか小学生でしかなく、この物件が賃貸ではなく分譲だということを再認識すると、本質を突かないままイメージだけで終わると確信。
よって方向性が、家族の人数や関係を建築側がfixする状況を乗り越えようという方向にシフト。これは「私たちが住みたい都市」(平凡社)の松山巌×上野千鶴子の討議、「プライバシー」より
○そもそも2DKは賃貸を前提にした仮住まいのモデルであった。
○住宅公団は当初、家族人数の増加による住み替えを想定していた。
○住宅不足、家族の経済状況の中で理想通り住み替えが行われなかった。
○最終的に分譲形式で資金を回収しなければ住宅供給が滞るという状態に変化したことに伴い(1979年、賃貸と分譲の住宅供給が逆転)、仮住まいではなくなったnLDKが家族の構成を事実上制限する装置として働き出す、を背景とする。
nLDK批判というと言いまわし自体がnLDKにのもこまれている気がして好きではないが、家族の構成変化とか関係変化をポジティブに空間化できれば、と思う。もちろん面積的な制限は大きい。
そこで思い当たったのが「梅林の家」/妹島和世、と「ガクハウス」/アトリエワン。両者とも行為に対応する非常に小さい部屋の連続で構成される。家族の人数と部屋のあり方一対一対応せず、行為で空間が分節される。ガクハウスの方は室が直線的に連続するため部屋の隣接関係は変わらないが梅林は開口の操作によって隣接関係を変化させる可能性を持つのではないか。
 
(梅林の家をつくってみたりした。狭いながらも部屋の隣接関係がおもしろい)
室の隣接関係の変化が家族の構成変化を許容し、例えば模様替えみたいに部屋の割り振りを変化させるだけで家自体がまた違った表情を獲得できたり、ものをどう扱うかということと合わせて生活のイメージが説得力を持ってたち現れれば、単身者だけでなく、家族が住む集合住宅、マンションのオルタナティブとして魅力的ではないかと思う。今回は参加できなかったが最終的にどんな作品が評価されるのか楽しみにしていよう。

実験的スタート

日々の経験や思考の足跡を整理して残すこと、そこから自分のスタンスを確認すること、自分の創作にフィードバックすること、そういった軌跡を発信すること、を目的に実験的に進めて行くつもりです。なるべく近いうちにmixiと連動させて知らせたい。自分の電子エスキス帳であることに変わりはないけど、色々な考えや思考を伝えることで、何か新しいものを生み出す原動力になればいいと今は思っている。
ではさっそく…17日。
某設計事務所のパーティで色々な建築関係者と話す機会があった。日建設計や色々なアトリエ系建築事務所のスタッフ、大学の先輩後輩などなど。
前から挨拶したかった人に挨拶できたり、たくさんの初対面の方々と話すことができて充実していた。何度か参加させてもらったパーティの中でも一番充実していたかも。色々話すことができるようになってきたからか。。日建設計の人は建築に対する熱い想いを熱く語ってくれた。言うまでもないけど、ゼネコンだろうがアトリエだろうが、熱い人は熱い。建築に夢を持っていることが伝わってくる。建築家はリアルに経験したことじゃないと設計できない、或は経験の伴わないものは強度が低いから、実体験をもとに自分の信じられることをするべきなんだということだった。一体今どれだけリアルなものを建築家はつくれているのかという問いを発していたように思う。イマジネーションの問題でもあると思う一方、先日見に行った仙台日本一決定戦で起こっていた議論と通じるところがあるのを感じた。
3/9、講評会場の仙台国際センターでは内的建築と社会派建築という二つの枠組みで議論が進んでいた。内的建築代表は日本二位になった作品。彼女は表現こそ違うが「自分のことしかリアルに感じられるものは無いし、だから自分のための建築しか考えられない。卒業設計は皆なんらかの問題を探し、それに対してどう応えるかというアプローチが多いが、実際そんなに問題だと思ってないんだろう、自分がそれに対して関心があるように装っているだけだろう、みんな嘘つきだと主張。一方講評会の議論に従うと社会派代表に位置づけられていた早稲田組は、問題発見までのアプローチは丁寧で力が入っているが、建築はそれに応えきれていない印象を受け、結局巨大なインフラが好きだったんですなどと言ってしまう始末。これを見てしまうと彼女の主張は実際そんなに的を外していないように思える。(もちろん建築的なイマジネーションはもっと広く開かれているものだと思うが。)卒業設計講評ではつきものの、「とにかくこういうのがやりたかったんです」型と「問題解決」型の対立。議論はいつもその二項対立になるが、両者はそんなに違わない。「こういうことがやりたい」という感覚や価値観を持つ自分が社会の中にどう位置づいているのかということが重要であり、そういう自分が社会の何を代弁しているのか、私の声でしかないのか。問われるべきはそこだと思う。そういう意味では、伊東豊雄氏だけがその議論の二項対立に対し、「身体感覚の違いの問題だ」と再三述べていたことが印象に残る。(内的建築に未来は無いと、社会に対してメッセージを発しようとする建築の在り方を肯定する貝島氏に対し、だからそれはあなたの身体感覚の問題だと繰り返した)
身体感覚、それは物理的な感覚はもちろん、社会という空間でのそれも指す。
自分の身体感覚に自覚的になることが、設計にとっても、作家性にとっても非常に重要だと最近感じている。