実家に帰らない正月というのは、それはそれで穏やかでのんびりとしている。
街にはあまり人がいない。24時間営業の東急ストアは休みだ。ブックオフはやっているがなじみの古本屋は休み。スタバはあいている。盆栽の移動販売は姿を見せないが、big issueは売りにでている。。いつもとは少し違う自由ヶ丘。
相変わらず本を読んだりしている。
「データ、プロセス、ローカリティ」というテーマのシンポジウムが秋にあった。
建築設計のプロセスが、例えばBIMの登場などで大きく変わりつつあり(全部ひっくるめて言えば情報化なのだが)、そのような新しい技術が大量のデータや複雑な条件を、より簡単に扱うことを可能にしている。前提条件の複雑さをなるべくそのまま設計のプロセスに反映できるのなら、その条件の違いというものがもう少し、建築の形態なり建築の在り方に表れてくるかもしれない。だとすれば条件の違いを生み出す一つの元となっている、場所の違いやコンテクストの違いが差異を生み、ひいてはローカリティの違いを反映させた建築を生み出す可能性を見出せるかもしれない。タイトルと絡めると、そういう議論をしようという思惑が少なからずあったと思われる。話はみんなそれぞれ面白くて、山梨さんも中山さんも、スタンスの違いを強調しつつ、とても魅力的なプレゼンをした。
(残念ながら連続企画されていた、五十嵐淳さん参加予定の会は研究室の都合で参加できず.悔やまれる)
そこではっきりしたのが、一言で条件といっても、何を設計の条件として見出すかというところが人によって全然違うということ。自分自身、こいつはこうだ、という断定とか、単純な二元論は好きじゃないけど、あくまで傾向として言えば、やっぱり組織設計とか大手ゼネコンとかは、基本的にスペックが全てなんだと。だからスペックに関わる条件しか基本的に条件にならない。スペックというのが元々確固としてあって、それを向上させればいい。それは建物の性能としてとても大事で、大手はそのへんに対する信頼感と、それを実践する確かな技術力には圧倒的なものがある。一方でアトリエはおそらくはバブルの箱もの乱立のときに社会的な信頼を失ってしまったこともあってか、基本的にそういったスペックを抑えられないと思われているようだ。そっちは後回しというふうに見られがちである。
BIMの登場によって設計のさらなる効率化が起こると、大手ですら人員削減が必要になる。建築にたずさわる人はそんなに沢山要らない。そんな状況だとか弱いアトリエなんてますます窮地に追いやられるんじゃないか。
本当にそうだろうか。そうは思わない。
BIMは今のところスペックの向上に非常に向いている。スピードも含めて。図面をかけば立体が立ち上がり、温熱環境等の様々なシュミレーションも容易に行える。シュミレーションまでやったことはないが、図面作成の圧倒的なスピードアップは使ってみて肌で感じた。もう少し使いこなせるようになれば、例えばおそらく図面作成に関してなら、数人分の仕事は全部一人でこなせるようになる。最低限の資金さえあれば、「高性能住宅」は誰にでも簡単に作れるようになる。スペックの価値が既に決まっているのであれば、それはとても容易いことだ。「スペックが決まっていれば」。
最近は環境と関わる姿勢でさえも、省エネ指標という、わかりやすいが本質的かは少し疑いたくなるようなスペックに置き換えられようとしている。
建築家のもともとの仕事はその先にある。スペックなり価値をつくりだし、示すこと。その前提すらくつがえすこと。何気なく広がるクローバー畑さえも条件に入れてしまうこと。(住宅だからそういう条件にも目を向けられる、組織の扱う大きな建物と比べるのはおかしいという反論も、この例えに関しては一理あることは認める)それを住宅に参加する大事な主体のひとつとみなして豊かさに変えてしまうこと。種々の想像力、意味。そこに生まれる価値。
環境負荷に対するスペックを満たしていて、さらにそこには風や光や熱との詩的な戯れがある。そうであれば誰も文句は言うまい。というより豊かなことだ。あとはコストの問題か。
藤村さんが、北海道に学べということを言っていたのも、基本的なスペックをおろそかにしてはそもそも居住が成り立たない環境が、全ての建築家に前提として性能を求め、そのなかで新たな豊かさや価値、空間を思考することが建築の社会的な厚みを生み出している状況を指してのことだろう。
高性能の建物は誰もが短時間で作れるようになる。
その恩恵を利用して、既存のスペックをクリアしつつ、さらなる想像力と価値の探求に突き進めるとすれば、それは建築家にとっていいチャンスじゃないか、と思うのは、学生であるが故の楽観にすぎるのだろうか。