月に水 -ある返答にかえて-

これは少し昔の話でもあり、少し真面目な”返答”である。
三大学合同好評会で岸健太賞を受賞したとき、岸さんから二冊の本をうけとった。
ひとつはテトラスクロール。バックミンスター・フラーが自身の思想を絵本というかたちでまとめた、なんとも不思議で示唆に富んだ本。フラーがどうやって世界に向き合っていたかがかかれているといっても大げさではないように思う。
もうひとつは「1984年」。1949年に出版されたジョージ・オーウェルの本だ。
抑圧された全体主義の行く先を描いた話。今はもう過去になってしまった、1949年からみた未来の1984年。その未来である1984年でさえ、自分は生まれてもいなかった。ビックブラザー、テレスクリーン、勝利ジン、ジューリア。。
物語のほとんどは、不気味な静けさとともに進んで行く。進んでいるのかもわからない。そのほとんどが暗くて冷たい。文学史の位置づけやそれに対して成された批評は、wikiにある通りらしいけど、それはそれで、今はそんなに重要ではないのかもしれない。
全てはもやがかかったように、全体的に灰色っぽくて、ひたすらに抑圧された息苦しさと、それとは正反対の白がたくさん混ざったエメラルドグリーンのような描写が、読者に必要以上の期待を抱かせないよう、注意深く綴られて行くような、そんな印象の物語。
そんな世界感の構築が進行していくなかで突然現れたジューリアの、「あなたを愛しています」というあまりにもシンプルな言葉は衝撃的で、一瞬その言葉の意味がわからない。その言葉はいったいどういう意味だっただろう、それくらいジョージ・オーウェルの描いた世界はそういうことを排除したものだったし、140ページかそこらでそんな世界に引き込んでしまう言葉の力を感じられずにはいられない。
この本が何故選ばれたのか。読み終えたあともしばらく消化できずにいたが、ユートピアであれディストピアであれ、未来を見通す確かな眼差しをもち、その世界を文章で構築するという社会的な責務を自らに課したジョージ・オーウェルというその人を、偉大な創作者のひとりとして、向きあわせたかったのだと思う。それがあくまでもディストピアであったということが、ものをつくる楽しみにとりつかれながらも、社会や世界の、目を背けてはいけない暗く冷たい部分をいつも頭の片隅においている岸さんらしい教えなのだろうと思います。そして未来にかかわるという。これはあくまで僕の感想ですが。
そしてそのすぐ後で、空前のベストセラーとなった村上春樹の1Q84。
初版が2009/05/30で、合同好評会が2月の終わり。ジョージ・オーウェルの「1984年」がどれだけタイムリーに僕のもとへやってきたのか、驚きとともに、気味が悪いくらいだ。
ミーハーに聞こえて構わないが、村上春樹は自分の中で別格で、その出会いも本当に偶然。
本を読むなんて全く縁の無かった自分が、大学一年の時にどういうわけか、ふと読んでみようとまとめて借りてきた村上龍のなかに一冊まぎれていた「ダンス・ダンス・ダンス」。村上ちがい。世間知らずの僕は村上春樹なんて当然知らなかった。多分今もそんなもんだろう。知らないことは知るまで知らないから。
何が好きで何がいいのかわからなかった不安な時期を少し通り越して、最近許せないことも多くなってきた。同時にそれが、そのものが持っている、潜在的な力を見つけにくくするフィルターとしてはたらかないよう、対象ときちんと向き合う必要性を感じている。今は少し違う種類のリアリティで建築をつくることに興味を持ちはじめた。
本を受け取って9ヶ月も経ってしまった今、やっとこのような返事を書こうとパソコンを開けば、月に水があったとかで世界は騒ぎだした。ものごとは連鎖している、ように見える。近いうちに月が二つ見えたらどうしよう。
それでもフラーとジョージ・オーウェルのかいた二つの物語は、そんな世界と自らが力強く向き合って生まれたものだったし、青豆だって、そうしようとしている。

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