Saint Benedict Chapelについて

精巧な工芸のような建築だと最初は思ったし、そういう評を耳にしたことがある気もする。
写真はここから
木の葉のような平面形状、中心に向かってわずかに傾いた床、架構を平面に沿った列柱で支えること、上に行く程細くなる柱、ハイサイドライトからの光、列柱がつくる影、インテリアのシルバー塗装と柱の裏のクリーム色のペンキ、柱の裏で反射される光、曲面の内壁に映る光のグラデーション。
アプローチから体験される、祈りの空間にたどり着くまでのいくつかの敷居。山道を登って目指し、斜面の中腹で自然の地形から空へ飛出すように、持ち上げられた舞台のような教会へと何段かの階段を昇る。この敷地選択と建て方の面白さ。だって、この建物が無かったら、この道の先には地面すらない。エントランスは神聖な祈りの空間へのこじんまりとした横穴で、列柱はその横穴に一切媚びを売らず立ち並んで、神聖な空間の独立性を保っている。唯一違うのは、限りなく白に近いクリーム色のペンキが塗られていないこと。この空間において、光は上から入ってくるものなんだ。
この建築を見て、そのディティールへの注力に確かに感心したけれど、でもディティールはディティールとして切り離されているわけではないし、ざっくりした全体の在り方に対するものとして、ディティールが位置づいているわけでもない。 全てが必然的に、全てと関係し合っている状態にあっては、ディティールとそうでないものという区別すら意味を持たなくなるんだなというのが、今の感覚で、何故そんな話をしたかと言うと、建築をどう組み立てるかという問題に、全ての要素が最初から参加していれば明快で、ディティールはディティールと分けて考える必要は無くなって、そういう風に建築をつくれるほうが、シンプルでいいなと思ったからだ。 今すごく関心があるのは、どれだけシンプルに、明快に建築をつくれるかということ。そういうことが今建築に求められていると感じている。
いつも、どうやって建築をつくっているんだろうと思いながら建築を見ているのは、それを想像したり読み取ったりすることは、単に手法的だったり技術的だったりするだけの味気ない話ではなくて、結局その中から、その建築が存在する枠組みを理解することができるからだし、それができなくてはいけないと思うからだ。
荒々しく切り立った山々と、鋭く切り込まれた谷底を目の前に暮らしている人々にとって、ヒューマンスケールで丁寧につくられた、ダイナミックでドラマティックになりすぎない優しい光が差し込む空間が、どれだけ特別な空間であるのか想像してみる。

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