存在としての建築と槇文彦「空間に力を」

年明けから大分たっての更新になってしまった。
年明けからまた作業したり出かけたり、伊東豊雄×坂本一成×中山英之×長谷川豪各氏による「個人と世界をつなぐ建築」シンポジウムを見に行ったり、「Live Round About」を手伝わせてもらったり色々でしたが。あと面白い本をいくつか見つけたり。
そうこうしている間に一コ下の卒業設計も一段落。去年手伝ってくれた後輩も、東工大、他校含め色々と結果を報告してくれたりで、彼らはまあ全体的に気持ちよくやりきることができたようなのでとりあえずお疲れさまと言いたいです。いい加減打ち上げしてあげなきゃ。。
最近は「存在としての建築」ということを考えています。
それは「建築の知恵とはなんだ」問題とも、とても関係が深いと思っていて、建築の知恵とはなんだというのは、去年僕らが主宰させていただいた卒業設計展「diploma exhibition 2009」のシンポジウムを通して自分のなかで湧いてきた問いです。「社会と建築」という頻繁に起こる議論で特に違和を感じるのは、いつも話題が社会と「建築家」の関係に収束してしまうこと。建築家が社会の中でどう振る舞うべきかという議論は、問いのたてやすさもあって、それはそれで成り立つのはわかる。ただその議論の中で言われる「建築」はいつもすごく矮小化されて気の毒だ。といつも思う。建築は道具じゃない。社会のための道具でも、環境のための道具でもない。建築は、社会や環境そのものをつくるひとつの存在だ。と捉えることで開かれる議論があるんじゃないかと思っている。
別に建築が特別に偉大だと思っているわけではない。情報社会に打ち勝つとか資本主義に打ち勝つとかそういうことを主張するつもりも一切ない。というかそういうものと対になるものじゃない。いつでもそれらの一部としての建築でしかあり得ないから。ただ建築には長い時間のなかで蓄積されてきた膨大な知恵がある。それは建築言語だったり建築の慣習的な要素だったり様々なものがあると思うが、そういうものをおきざりにした「建築」が、いつも議論のなかでむなしく振り回されているように見える。「Live Round About」で磯崎さんが「ビルディングとしての建築」ではなくて「概念としての建築」をと言ったのも、その半分はそういうことなのではないだろうか。
おそらくバブル期の「ハコもの」への自戒と反省をひとつのきっかけとして、ある時期から弱い建築が主張されだした。でもそこで建築家が距離をとろうとしたのは、自然や社会や人間を傲慢なままに支配しようとした、制度としての建築であって、存在としての建築ではなかったはずだ。建築は、人間や植物や動物が寄り添ったり、包まれたりするような、大木のような自然のような存在でいい。
自分の卒制が一通り済んで、diploma exhibitionのフリーペーパーでかいた「身体性を超えて」という文章から少しづつ考えてきて、人間の身体感覚に依存しすぎない、おおらかな建築のもつ自律(自立)性とか秩序とか、そういうものに興味をもち、じゃあいわゆる古典建築ではどういうかたちで存在していたのかという興味を手がかりに「ウィトルウィウス建築書」とかアレキサンダー・ツオニス著「建築と知の構造」とかケネス・フランプトンの「現代建築史」とか読んだわけだが、この「建築と知の構造」という本がすごく面白い。
ウィトルウィウスの頃、前ー合理主義建築においては、
「建築設計のルールは、デザイン作品と《神聖モデル》をつなぐものと考えられていたから、建築の探求は、神聖モデルの構造の同定と、それを建築の内に実演する手だての発見であった。デザインが、《規範によって》いれば、あるいは神聖な典型に従っていれば、それは《真実》であり、《調和》であり完全であった。」
「つまり人構の空間は、神のモデルの三次元的翻訳であると規定された。典型と個別の等価性は幾何学によって保証されるものであるとされたから、幾何学はデザインの欠くことのできないものと考えられた。」とある。
でも神聖モデルが幾何学的な秩序に変換されたのは中世・ルネサンス期のヨーロッパの場合であって、必ずしもその対応だけが全てではないというのが面白い。例えばある部族は、人体になぞらえた家や集落の配置構成を神聖モデルとして建築がデザインされていた。風水とか家相というのもおそらくひとつの神聖モデル。
ルネサンスの終わり頃、17世紀中頃に、建築の形が神に由来を持つという信仰を疑う思想が起こってくる。そこで登場したフランスの建築家、クロード・ペローは前―合理主義から建築を解放するために、「神聖なる物への尊敬とそうでないもの」という区別立てを使った。神聖モデルを頭から否定せず、聖俗二本立ての世界観を提唱したところに巧みさがある。ここで、神聖モデルでも自然の模倣でもない美の基準として「独断の美」と呼び、それは「社会に固有に根ざす産出物」としての約束であり、市民法に極めて近い性質のものであるが、突き詰めれば、「習慣」で決まるものだ」とした。
ここから建築の慣習的な要素へと議論が接続できる。このペローの論理は見直す価値があるんじゃないか。すごく面白いと思う。(著者はこのペローの卓越した合理主義的デザイン思想が人間環境を産出するための新しい役割を放棄して、権力に奉仕するものへと変わり、「形態は機能に従う」という不毛な理論につながった、と述べている。)
これまでの話は建築の秩序と規範をかたちづくった思想についての考察で、現代に辿り付くのにもう少しかかりそうだけど、例えば植物の発生とかをアナロジーにしたアルゴリズムとかって、ひとつの神聖モデルに過ぎないんじゃないかとか、じゃあどうするっていう創作論にすごく深みを与えそうで面白い。
これからはついさっきの話。
建築家が空間とか言い出すと、ある人たちからはまたかよ、と揶揄されそうだけれども、(それをそれこそなにか神聖なものとして扱う態度に問題があるわけであって)、じゃあ誰が空間の話をするの?しなくていいの?っていうのが自分の考えだから、ずっと楽しみにしていて運良く行くことができました、槇さんの講演会「空間に力を」。
メタボリズム期のグループフォームから2010までの仕事を概観しながらの講演会はとても貴重な体験。
キーワードは「群像形」「群と弧」「人間の普遍性」。
グループフォームの思想からわかるように、槇さんは建築と建築の間の空間(それこそ隙間、空間と呼ぶしか無い)を建築でどうデザインするかという興味を一貫してもっている。これはまさに都市空間のなかの建築を強く意識したもの。そしてその概念は、建築には外部と内部があるが、「空間に外部と内部の差はない」という新たな認識を打ち立てる。
今日の講演会で槇さんは、メタボリのテクノユートピアに対して、より個々の、そのままの人間によってできる都市というものにリアリティも可能性も感じていたいうのがはっきりした。そしてヒルサイドテラスを例に、群像形が重なりによる奥性、時間による人間の密度の変化ーそしてそれが周期的、つまりリズムーを内包する形式だということを話していて、鳥肌がたつ。
ただここで言うリズムは、どちらかと言うと短いスパン、例えば一日のなかで通りを歩く人の密度変化とかを指している。ただリズムが生む安心感を建築に内包しようという意図は強く感じた。
槇さんは自分でも言っていたように群像形を実践する機会に恵まれた。それがどのように群としてデザインされ、外部空間を支配しているのか、ちょっと探ってみようと思う。修論設計にあたって、なにかパタンランゲージ的なデザインコードに依存する提案というのとは違うやり方をしたいとずっと思ってきた。それは単に新しいものを、というよりは、パタンランゲージの面白さは感じていると同時に「なにか違う」感じがするからだ。それはまだはっきり言えないけれど、時間やリズムに関係があるかもしれないし、それこそ切り離された単語(パタンランゲージ)と「群」の間にある隔たりあたりにカギがあるような気もしている。
群と弧の話はとても好きで、槇さんの、祝祭空間と弧の空間のバランス感覚はいつも感動すら覚えるほどだ。スパイラルはそういう意味でも日本で最も重要な都市建築のひとつと思っている。
槇さんは空間の力として、人間の普遍性に触れるもの、人間に歓びを与えるものを挙げ、都市において何か共有できるもの、または建築の規範を見出せる基盤があるとすれば、sk0910の巻頭インタビュー「人間とは何かを考えながら建築をつくり続ける」でも語っていたように、人間としての共通感覚、そういった普遍性なのではないか。と締めくくった。それをわかりきったことだと切り捨てるか、現代においてそれを建築の方法として見出すか。
ペローの言う習慣と、それが建築を通して蓄積され型となった慣習、人間の普遍性。
次にやるべきことに少し近づいた気がする。

5 Comments

  1. mayu-go says:

    2010年2月25日 at 12:36 AM

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    高校生の時、槇さんのヒルサイドテラスを見たことが
    その背景を知ったことが、
    建築を学ぼうと決めたきっかけの一つでした。
    何だか忘れてた初心を思い出させてくれる記事だったよ。
    大切なこと忘れてた気がする。
    ありがとう。一方的だけど(笑)

  2. mi says:

    2010年2月25日 at 2:06 AM

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    そうなんだ。おれは3年生のときにやっとスパイラルに感動できた。
    あれが抜群に好きだ。風の丘もすごくいい。オープンスペースと建築の関係が特に。

  3. mayu-go says:

    2010年2月26日 at 3:55 AM

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    私もスパイラル好き。行く度にやってる展示も良い。
    帰りは窓際の椅子でぼーっ。がいつものルート。
    未だレストランに入れてない・・・見下ろすだけ(笑)
    フローニンゲンの浮かぶ劇場が見れたらいいのに。
    とても気になる。

  4. mi says:

    2010年2月26日 at 5:56 AM

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    知らなかったから検索してみたけど。今もあるの?浮かぶ劇場。
    全然知らなかったわ。おもしろいことやってるなあ。

  5. mayu-go says:

    2010年3月3日 at 1:43 AM

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    ちょっと忙しくて見れてなかった・・・
    浮かぶ劇場の行方は謎☆
    槇さんに聞いてみたいところですな。ってそんな勇気はないのだけれど(笑)
    あの空間は体験してみたい。ウユニ塩原と同じ位行ってみたいな。

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