百年記念館展示室完成!!

百年記念館展示室の改修が、ほぼ完了した。
今日はその打ち上げ。
坂本先生のTTF建設に伴い、百年記念館の会議室機能をすべてTTFに移動し、その代わりに百年記念館を博物館として改修する手伝いを、半年くらいさせてもらっていた。複雑なレーザに関するパネルをつくったり、巨大な真空管の撮影をしたり、特に最後は日程もぎりぎりで、研究室の作業の合間をぬっての作業はストレスに感じることもなかったわけではないが、完成した展示室を見て喜びもひとしお。建築学科で、面発光レーザや水晶の反射角度について語れる人はなかなかいないだろう。春にはオープンらしいので、みんな一度は見に行ってもらいたい。今度ちゃんと写真を撮りに行かなくては。
塩崎さん行きつけの、新橋の居酒屋で一次会。料理も酒も本当に最高の店だった。色んな裏話から今の建築界についての話まで、研究室が違うと見方が違うのがおもしろくて、当たり前だと無批判に受け止めがちだったことが相対化され、はっとさせられる。都市を無批判に、楽観的に信じすぎてるのではないかという最近の塚本研の傾向は、自分自身少し戸惑いを感じていたし、都市とはなにかを再考するタイミングなのかもしれない。
二次会は銀座に移動。再開発で姿を消すかもしれないという、とあるバーへ。これがなんと渡辺力と剣持勇が1953年に内装デザインしたという老舗バー。とても居心地がいい、肩の力が抜けたようないいバランスのデザイン。明かりのデザインが、暗すぎず、明るすぎずの絶妙なバランスで、それが家具を効果的に照らしたり、空間に奥行きを与えていたと思ったけど、照明まで当時のままかは聞きそびれた。ちょっとはかわってるかもなあ。テーブルとか椅子もいちいちシャープで気をひかれる。どれも現役だという。いいデザインでちゃんとつくれば、60年くらいの年月はあっと言う間に超えてしまうんだ。
年上の大先輩に連れられて、銀座のバーもいい経験だったし、すごく楽しかった。自分が長男だからか、そして親父もなれなれしくできるきさくな父親というよりも、黙っておれの背中を見ろみたいな人だからか(笑)、年上やおにいちゃん的な人に甘えるのがどうも苦手だが、やっぱり大人はおもしろい。そしてひょいひょい都市を渡り歩いて、例えば今回のバーみたいに、名作といわれる空間に、いとも簡単にコミットしてしまえるあたり、東京はやめられないなあと、思ったりするのだ。

存在としての建築と槇文彦「空間に力を」

年明けから大分たっての更新になってしまった。
年明けからまた作業したり出かけたり、伊東豊雄×坂本一成×中山英之×長谷川豪各氏による「個人と世界をつなぐ建築」シンポジウムを見に行ったり、「Live Round About」を手伝わせてもらったり色々でしたが。あと面白い本をいくつか見つけたり。
そうこうしている間に一コ下の卒業設計も一段落。去年手伝ってくれた後輩も、東工大、他校含め色々と結果を報告してくれたりで、彼らはまあ全体的に気持ちよくやりきることができたようなのでとりあえずお疲れさまと言いたいです。いい加減打ち上げしてあげなきゃ。。
最近は「存在としての建築」ということを考えています。
それは「建築の知恵とはなんだ」問題とも、とても関係が深いと思っていて、建築の知恵とはなんだというのは、去年僕らが主宰させていただいた卒業設計展「diploma exhibition 2009」のシンポジウムを通して自分のなかで湧いてきた問いです。「社会と建築」という頻繁に起こる議論で特に違和を感じるのは、いつも話題が社会と「建築家」の関係に収束してしまうこと。建築家が社会の中でどう振る舞うべきかという議論は、問いのたてやすさもあって、それはそれで成り立つのはわかる。ただその議論の中で言われる「建築」はいつもすごく矮小化されて気の毒だ。といつも思う。建築は道具じゃない。社会のための道具でも、環境のための道具でもない。建築は、社会や環境そのものをつくるひとつの存在だ。と捉えることで開かれる議論があるんじゃないかと思っている。
別に建築が特別に偉大だと思っているわけではない。情報社会に打ち勝つとか資本主義に打ち勝つとかそういうことを主張するつもりも一切ない。というかそういうものと対になるものじゃない。いつでもそれらの一部としての建築でしかあり得ないから。ただ建築には長い時間のなかで蓄積されてきた膨大な知恵がある。それは建築言語だったり建築の慣習的な要素だったり様々なものがあると思うが、そういうものをおきざりにした「建築」が、いつも議論のなかでむなしく振り回されているように見える。「Live Round About」で磯崎さんが「ビルディングとしての建築」ではなくて「概念としての建築」をと言ったのも、その半分はそういうことなのではないだろうか。
おそらくバブル期の「ハコもの」への自戒と反省をひとつのきっかけとして、ある時期から弱い建築が主張されだした。でもそこで建築家が距離をとろうとしたのは、自然や社会や人間を傲慢なままに支配しようとした、制度としての建築であって、存在としての建築ではなかったはずだ。建築は、人間や植物や動物が寄り添ったり、包まれたりするような、大木のような自然のような存在でいい。
自分の卒制が一通り済んで、diploma exhibitionのフリーペーパーでかいた「身体性を超えて」という文章から少しづつ考えてきて、人間の身体感覚に依存しすぎない、おおらかな建築のもつ自律(自立)性とか秩序とか、そういうものに興味をもち、じゃあいわゆる古典建築ではどういうかたちで存在していたのかという興味を手がかりに「ウィトルウィウス建築書」とかアレキサンダー・ツオニス著「建築と知の構造」とかケネス・フランプトンの「現代建築史」とか読んだわけだが、この「建築と知の構造」という本がすごく面白い。
ウィトルウィウスの頃、前ー合理主義建築においては、
「建築設計のルールは、デザイン作品と《神聖モデル》をつなぐものと考えられていたから、建築の探求は、神聖モデルの構造の同定と、それを建築の内に実演する手だての発見であった。デザインが、《規範によって》いれば、あるいは神聖な典型に従っていれば、それは《真実》であり、《調和》であり完全であった。」
「つまり人構の空間は、神のモデルの三次元的翻訳であると規定された。典型と個別の等価性は幾何学によって保証されるものであるとされたから、幾何学はデザインの欠くことのできないものと考えられた。」とある。
でも神聖モデルが幾何学的な秩序に変換されたのは中世・ルネサンス期のヨーロッパの場合であって、必ずしもその対応だけが全てではないというのが面白い。例えばある部族は、人体になぞらえた家や集落の配置構成を神聖モデルとして建築がデザインされていた。風水とか家相というのもおそらくひとつの神聖モデル。
ルネサンスの終わり頃、17世紀中頃に、建築の形が神に由来を持つという信仰を疑う思想が起こってくる。そこで登場したフランスの建築家、クロード・ペローは前―合理主義から建築を解放するために、「神聖なる物への尊敬とそうでないもの」という区別立てを使った。神聖モデルを頭から否定せず、聖俗二本立ての世界観を提唱したところに巧みさがある。ここで、神聖モデルでも自然の模倣でもない美の基準として「独断の美」と呼び、それは「社会に固有に根ざす産出物」としての約束であり、市民法に極めて近い性質のものであるが、突き詰めれば、「習慣」で決まるものだ」とした。
ここから建築の慣習的な要素へと議論が接続できる。このペローの論理は見直す価値があるんじゃないか。すごく面白いと思う。(著者はこのペローの卓越した合理主義的デザイン思想が人間環境を産出するための新しい役割を放棄して、権力に奉仕するものへと変わり、「形態は機能に従う」という不毛な理論につながった、と述べている。)
これまでの話は建築の秩序と規範をかたちづくった思想についての考察で、現代に辿り付くのにもう少しかかりそうだけど、例えば植物の発生とかをアナロジーにしたアルゴリズムとかって、ひとつの神聖モデルに過ぎないんじゃないかとか、じゃあどうするっていう創作論にすごく深みを与えそうで面白い。
これからはついさっきの話。
建築家が空間とか言い出すと、ある人たちからはまたかよ、と揶揄されそうだけれども、(それをそれこそなにか神聖なものとして扱う態度に問題があるわけであって)、じゃあ誰が空間の話をするの?しなくていいの?っていうのが自分の考えだから、ずっと楽しみにしていて運良く行くことができました、槇さんの講演会「空間に力を」。
メタボリズム期のグループフォームから2010までの仕事を概観しながらの講演会はとても貴重な体験。
キーワードは「群像形」「群と弧」「人間の普遍性」。
グループフォームの思想からわかるように、槇さんは建築と建築の間の空間(それこそ隙間、空間と呼ぶしか無い)を建築でどうデザインするかという興味を一貫してもっている。これはまさに都市空間のなかの建築を強く意識したもの。そしてその概念は、建築には外部と内部があるが、「空間に外部と内部の差はない」という新たな認識を打ち立てる。
今日の講演会で槇さんは、メタボリのテクノユートピアに対して、より個々の、そのままの人間によってできる都市というものにリアリティも可能性も感じていたいうのがはっきりした。そしてヒルサイドテラスを例に、群像形が重なりによる奥性、時間による人間の密度の変化ーそしてそれが周期的、つまりリズムーを内包する形式だということを話していて、鳥肌がたつ。
ただここで言うリズムは、どちらかと言うと短いスパン、例えば一日のなかで通りを歩く人の密度変化とかを指している。ただリズムが生む安心感を建築に内包しようという意図は強く感じた。
槇さんは自分でも言っていたように群像形を実践する機会に恵まれた。それがどのように群としてデザインされ、外部空間を支配しているのか、ちょっと探ってみようと思う。修論設計にあたって、なにかパタンランゲージ的なデザインコードに依存する提案というのとは違うやり方をしたいとずっと思ってきた。それは単に新しいものを、というよりは、パタンランゲージの面白さは感じていると同時に「なにか違う」感じがするからだ。それはまだはっきり言えないけれど、時間やリズムに関係があるかもしれないし、それこそ切り離された単語(パタンランゲージ)と「群」の間にある隔たりあたりにカギがあるような気もしている。
群と弧の話はとても好きで、槇さんの、祝祭空間と弧の空間のバランス感覚はいつも感動すら覚えるほどだ。スパイラルはそういう意味でも日本で最も重要な都市建築のひとつと思っている。
槇さんは空間の力として、人間の普遍性に触れるもの、人間に歓びを与えるものを挙げ、都市において何か共有できるもの、または建築の規範を見出せる基盤があるとすれば、sk0910の巻頭インタビュー「人間とは何かを考えながら建築をつくり続ける」でも語っていたように、人間としての共通感覚、そういった普遍性なのではないか。と締めくくった。それをわかりきったことだと切り捨てるか、現代においてそれを建築の方法として見出すか。
ペローの言う習慣と、それが建築を通して蓄積され型となった慣習、人間の普遍性。
次にやるべきことに少し近づいた気がする。

スペックにならない価値を求めて

実家に帰らない正月というのは、それはそれで穏やかでのんびりとしている。
街にはあまり人がいない。24時間営業の東急ストアは休みだ。ブックオフはやっているがなじみの古本屋は休み。スタバはあいている。盆栽の移動販売は姿を見せないが、big issueは売りにでている。。いつもとは少し違う自由ヶ丘。
相変わらず本を読んだりしている。
「データ、プロセス、ローカリティ」というテーマのシンポジウムが秋にあった。
建築設計のプロセスが、例えばBIMの登場などで大きく変わりつつあり(全部ひっくるめて言えば情報化なのだが)、そのような新しい技術が大量のデータや複雑な条件を、より簡単に扱うことを可能にしている。前提条件の複雑さをなるべくそのまま設計のプロセスに反映できるのなら、その条件の違いというものがもう少し、建築の形態なり建築の在り方に表れてくるかもしれない。だとすれば条件の違いを生み出す一つの元となっている、場所の違いやコンテクストの違いが差異を生み、ひいてはローカリティの違いを反映させた建築を生み出す可能性を見出せるかもしれない。タイトルと絡めると、そういう議論をしようという思惑が少なからずあったと思われる。話はみんなそれぞれ面白くて、山梨さんも中山さんも、スタンスの違いを強調しつつ、とても魅力的なプレゼンをした。
(残念ながら連続企画されていた、五十嵐淳さん参加予定の会は研究室の都合で参加できず.悔やまれる)
そこではっきりしたのが、一言で条件といっても、何を設計の条件として見出すかというところが人によって全然違うということ。自分自身、こいつはこうだ、という断定とか、単純な二元論は好きじゃないけど、あくまで傾向として言えば、やっぱり組織設計とか大手ゼネコンとかは、基本的にスペックが全てなんだと。だからスペックに関わる条件しか基本的に条件にならない。スペックというのが元々確固としてあって、それを向上させればいい。それは建物の性能としてとても大事で、大手はそのへんに対する信頼感と、それを実践する確かな技術力には圧倒的なものがある。一方でアトリエはおそらくはバブルの箱もの乱立のときに社会的な信頼を失ってしまったこともあってか、基本的にそういったスペックを抑えられないと思われているようだ。そっちは後回しというふうに見られがちである。
BIMの登場によって設計のさらなる効率化が起こると、大手ですら人員削減が必要になる。建築にたずさわる人はそんなに沢山要らない。そんな状況だとか弱いアトリエなんてますます窮地に追いやられるんじゃないか。
本当にそうだろうか。そうは思わない。
BIMは今のところスペックの向上に非常に向いている。スピードも含めて。図面をかけば立体が立ち上がり、温熱環境等の様々なシュミレーションも容易に行える。シュミレーションまでやったことはないが、図面作成の圧倒的なスピードアップは使ってみて肌で感じた。もう少し使いこなせるようになれば、例えばおそらく図面作成に関してなら、数人分の仕事は全部一人でこなせるようになる。最低限の資金さえあれば、「高性能住宅」は誰にでも簡単に作れるようになる。スペックの価値が既に決まっているのであれば、それはとても容易いことだ。「スペックが決まっていれば」。
最近は環境と関わる姿勢でさえも、省エネ指標という、わかりやすいが本質的かは少し疑いたくなるようなスペックに置き換えられようとしている。
建築家のもともとの仕事はその先にある。スペックなり価値をつくりだし、示すこと。その前提すらくつがえすこと。何気なく広がるクローバー畑さえも条件に入れてしまうこと。(住宅だからそういう条件にも目を向けられる、組織の扱う大きな建物と比べるのはおかしいという反論も、この例えに関しては一理あることは認める)それを住宅に参加する大事な主体のひとつとみなして豊かさに変えてしまうこと。種々の想像力、意味。そこに生まれる価値。
環境負荷に対するスペックを満たしていて、さらにそこには風や光や熱との詩的な戯れがある。そうであれば誰も文句は言うまい。というより豊かなことだ。あとはコストの問題か。
藤村さんが、北海道に学べということを言っていたのも、基本的なスペックをおろそかにしてはそもそも居住が成り立たない環境が、全ての建築家に前提として性能を求め、そのなかで新たな豊かさや価値、空間を思考することが建築の社会的な厚みを生み出している状況を指してのことだろう。
高性能の建物は誰もが短時間で作れるようになる。
その恩恵を利用して、既存のスペックをクリアしつつ、さらなる想像力と価値の探求に突き進めるとすれば、それは建築家にとっていいチャンスじゃないか、と思うのは、学生であるが故の楽観にすぎるのだろうか。

2010のほんの少し前

明けましておめでとうございます。
2009年最後粘ろうと思ったけど、やっぱりあっという間に明けてしまいました。
今年は久しぶりに東京での年越しだから、あんまり実感わいてませんが。
今年もよろしくお願いします。
さて、「年始の決意」はせめて初日の出を浴びてからにするとして。。
再販されたルドルフ・オルジアティの作品集がやっと届きました。
三時間くらいスタバで見入ってしまったけど、素晴らしい。本自体もかっこいいし。
超レア本だったということで自分には縁がないと思ってあきらめていたのに、まさか再販されるとは。ついでに篠原一男の作品集も再販されないだろうか。ボリュームの扱いとか立面のつくりかたとかが本当にいいなあと思う。あと階段の作り方がおもしろい。基本的なところは外してないけれど、チャレンジングでとても自由に見えます。「お面」の話じゃないけど、定型に則りながらの自由を良く体現している、彼の建築たちは。
忘年会で再会した友達が、三ヶ月のヨーロッパ旅行の成果、膨大なスケッチをまとめた一冊の分厚い本を見せてくれました。それがとても素敵で。彼はもともとスケッチがうまいというのもあるんだけど、旅の最初と最後では、スケッチの質が大きく変わっていて。絵の技術というよりは、何を線にするかというところが大きく違うのかな。本人も言ってたけど、何を書くべきかだんだんわかってきたと。
最近特に建築を実際に見に行きたいという衝動が強くて、年末に谷口吉生の法隆寺宝物館とか、その父吉郎のホテルオークラとか見に行ったけれど、その立派な本を通して、自分にとって、スケッチひとつすることの意味を改めて考えさせられた。
吉生さんはやっぱり、面が強くて、ファサードをきちんとつくる人だけど、今回新しく面白いと思ったのは、「大きな空間の体験的分割」という考え方。大屋根は大きいスケールだけれど、入り口の高さをかなり抑えたり、そういうところはきちんとしてるから、つらくない。そして「大きな空間の体験的分割」というのは、これから説明する一つの仮説。導線にしたがっていくと、その大きな空間に何回か、それぞれ別のかたちで再登場することになる。まずエントランスホールから入って、展示を見てるうちにブリッジとかでまたその空間にでくわして、最後にまた違うところからその空間に戻ってくる、といった具合に。それは何かこう、自分の身体の位置と空間との関わり方の想像力を、体験を通して埋め込むということなのではないかと思う。







ホテルオークラもすごく感動したけど、眠くなってきたので、改めてまた。

枠組みを物語る建築

ミジカド。この言葉を覚えているだろうか。一年前に友達に招待された友達の紹介で偶然行くことになったチャリティーコンサートの名前です。ハイチに学校をつくる。それがみんなの目標。今年は10/11(日)に横浜美術館で行われます。光栄なことに、今回その会場で、僕の作品が展示されることになりました。あの日をきっかけに代表の高岡さんに色々お話を伺って構想したものを、会場である横浜美術館のコンサートホールのロビーに展示します。

まだ見ぬハイチの学校のまわりに構想されたひとつながりの空間。
ハイチの人々が描く色彩豊かで独特の表情をもつ絵。
この国の文化であり、記憶であり、希望である絵。
それを蓄積し、ひたすら絵で埋め尽くされる空間。
子供達によって、どんな絵が描かれていくのか。
それこそまさに、セスラの志そのもの。

去年の日記→切実さとは
あの時とは少し考えは変わっていて、建築の可能性は決してテクニカルな部分だけにある(本当に全てがそうだとは思っていなかったけど、この日記ではその欠如に対する危機感を表現していますね)のではなくて、思考の仕方だとか、ある事物に対する枠組みのつくり方だとか、意味だとか、具体的な絵としてビジョンを示すことだとか、そういうところにあると思っている。そしてこの作品は、物語をつくったということに近い。一年前、若きアーティスト達に感動させてもらった自分が、微力ながらも今度は彼らと同じ側に立って、少しでも人の心を動かすことができれば、それはとても嬉しいこと。
コンサートの期間のみ、ほんの数時間の展示です。
コンサートにも足を運んでみてください。是非。
詳細→ミジカド2009

興奮冷めやまぬ

スペイン・ポルトガルの濃密な旅を終えてはや2週間。
いい意味で自分の建築観をかきまわされて、大変な衝撃を受けたから、帰国してからも興奮冷めやまぬといった感じか。気がつくと東京もいい季節になってきたし、ちょっと腰をすえて考え事をしたいと思う。将来のビジョンも真面目に考えだして、まあ多少の不安がありつつも、やりたいことが溢れ出て、なかなか寝付けない。頭はフルスピードで回転している感があるけど、もう少し。まずは旅行中たびたび書き留めていたものを、ざっとまとめてアップしていきたい。本当にこの旅は自分にとって大きかったから。
 

 

二年前、有名建築の場所のみプロットされたざっくりした地図だけを頼りに、大きな荷物を背負って友と二人、わけもわからずヨーロッパをさまよった時とは見えるものが全然違う。
  

シザの建築は圧倒的。もちろんシザ特有のボキャブラリーや構成について語ることもできるが、一番衝撃的なのは、自分がその空間に存在しているという感覚から逃れることができないこと。客観的にみることができない。一方でひたすらに奇麗なんだけどすごくバーチャルに見える建築というものもある。内部にとりこまれているんだけど無視されているような、そういう感覚を与える建築がある。シザの建築はそれと真逆。今はそう伝えることしかできない。
彼が建築家として仕事をする枠組みはとてもしっかりしていて、建築家として社会的に強く信頼されているのがわかる。lisbonのchiado地区のリノベーション、evoraのsocial housing、boucaの集合住宅…。そしてそれぞれがすごく適切な大きさだという感覚を強く感じたのはおもしろい。スケールと言ってしまっていいのか、その辺は少し慎重になるべきだけど、「建築の大きさ」はとてもおもしろくて可能性のある話だと思う。初めてその実感を得る。シザもそこにとても敏感な建築家だと思う。坂本先生が近年よく語っているスケールの話、ちょうど今月の住宅特集の長谷川豪さんと西沢大良さんの対談とすごく関係がある。スケールそれ自体は神秘的なものでもなんでもないと思うし、それ自体に独立した価値を見出すのは嘘くさくてちょっと違うと思うけど、もう少し一般的なというか、建築と社会の問題として建築の大きさを考えることには、興味がある。

釧路新聞に載せていただきました

地元に帰ってきています。と言っても、明日東京にもどりますが。。
今回の帰省でも、たくさんの出会いがあって楽しかった。帰ってくる度にいろいろな出会いがあって、どんどん輪が広がっていくのが最高です。
そして先日、釧路新聞社さんに取材をして頂きました。
実はすでに、今日の朝刊に掲載されてます。ネットとはまた違ったスピード感。
釧路を舞台にした卒業設計を、釧路のみなさんに新聞を通して伝えるチャンスをいただいたこと、感謝します。釧路新聞社の黒田さん、今回の取材に関して色々手伝ってくれた親友の赤本くん、本当にありがとうございました。どちらかといえば抽象的で、なかなか一言でまとめるのが難しい話をたくさんしてしましましたが、熱い想いを熱心に聞いてくださり、素敵な記事にしていただきました。
今回の記事は、建築家(修行中ですが。。)が何をやろうとしているのか、どんなことを考えているのか、を伝える最初の入口にはなったのかなと思います。こんなやつがいるのかということをまず知っていただければ。
とにかく釧路をテーマに考えてくれたこと自体が嬉しいと言ってくださる方もいます。が、こっちはプロでありたいと強く思っている以上、いつまでもそこに甘んじるわけにはいきません。
僕の方はまた東京に戻って、修行を続けるだけです。中途半端なものを地元に持ち込むことだけはしたくないので。
明日帰ります。灼熱の東京(笑)
17日からはスペイン、ポルトガルでリサーチ。
”窓辺でおきる、人やモノの豊かな振る舞い”を観察してきます。
みなさんお元気で。

表現がすべて。すべてが表現。



東京で初めて花火みる。
神宮の花火を、先輩の事務所というベストスポットから。
うまい酒とうまいつまみ。築地の魚ってほんとにうまい。感謝します。
花火を見てる一体感が東京花火の一番おもしろいところかな。ベランダというベランダに、屋上という屋上に人の姿が。高層ビルと満月と飛行船と花火。
街や人が生き生きする瞬間が楽しい。
レアマニアックな本をいろいろみせてもらう。ルドルフ・オルジアティの建築がものすごくかっこいい。
もっと見たい、知りたい、つくりたい。
コアな先輩たちの建築話は聞いてて本当におもしろいが、まだ参加できず。まあでも開き直るわけではないが、わからないというのは偽らなくていい。知識の差はしかたがない。その場で相づちをうってみせることは簡単だが、自分の言葉が無ければ意味がない。もう少しゆっくり勉強する時間がほしい。大学院生なんだから、一日中建築の本を眺めていてもいいはずだ。それがなかなか難しいのだけれども。。
建築の勉強始めたその時からお世話になり、今は千葉工大で研究室をもっている先輩(?)と思いのほか家が極近であることが判明。これはまたお世話になってしまいそうです。多分彼の家にはものすごい量の建築レア本がひしめいてるのだろうなあ。
建築が他の分野を積極的に参照した60,70年代。建築の閉塞感に比べてロジックも実践も先進だった音楽や演劇、サブカル。今はそのどの分野もパッとしない。ヨウジヤマモトもハナエモリも苦しそうだ。情報は無限でも、何かてっとりばやく参照できるようなものは見つかりにくい。
常にやってる自分が最先端。まわりの反応を少し気にしすぎているのかもしれない。
大事な言葉はいつもすぐ忘れてしまう。
「ふたつの選択肢のどちらを選ぶべきかという迷いほど無駄なことはない。」
今日出会ったことば。

7/4!!

7/4!! 17:00~DEPLOMA EXHIBITIONと連動して行われたインタビューをさせていただいた方を中心にお招きして、卒業設計のプレゼンテーションとディスカッションを行います。
(ゲスト:坂本一成・高橋晶子・高橋寛・大成優子・吉村英孝・藤村龍至(敬称略))
卒業設計を終えて半年が経とうとしていますが、今回このタイミングでexhibitionを行うにあたって、何をすべきなのか、実行委員で色々考えた結果、やはり未来について話そうということで、おそらく東工大の長い卒業設計展の歴史のなかで初めて、僕たちはフリーペーパーの発行やイベントの企画を行いました。
個を際立たせる4000字の論考。先輩であるそうそうたる建築家達と、生意気にもフラットに扱われたレイアウト。それらはこれから一人の作家として背負おうとする責任の表現でもある。展示会においてもフリーペーパーにおいても、今自分たちが持っている全てをさらけ出しました。
これが終われば卒業設計はしばらく過去のもになります。
next stageへ。
その瞬間に是非参加して頂きたい。
よろしくお願いします。
exhibitionは18日までです。受付は作品を出展している実行委員が交代で行っています。以下に僕の担当時間を書きます。質問でも批判でも世間話でもなんでもかまいません、気軽に声をかけてください。当番以外の時間でも、連絡をくれれば可能な限り顔出しに行きますので、遊びにきてください。フリーペーパーは読み応えあると思います。建築無関係の人でも、それぞれの熱い思いは伝わってくるはずです。楽しんでください。それでは会場で。
7/4(土) 16:00-
7/7(火) 14:00-19:00
7/8(水) 10:00-14:00
7/10(金) 14:00-19:00
7/13(月) 10:00-14:00
7/15(水) 10:00-14:00
は会場にいる予定です。

大きくて近いものと小さくて遠いもの

奥山先生のオープンハウス。卒制をお手伝いさせってもらった先輩の初担当ということで、とても楽しみにしていた。


外観は足元の軽いおおきな家型。コンクリート造。
左右がガレージ、正面の大きな開口は吹き抜けに面して2、3階にまたがり、中が良く見える。
外観はとにかく大きな建てものに見える。どこか異常なくらい大きい感じがする。ところが中は非常に関係が近い。狭いわけではなく、近い。
アトリエワンの家は外観の見え方に対して、内部が圧倒的に広く感じられる。というか遠い、のか。階段がスキップフロアを貫く構成。それぞれの場所と場所の関係に距離をつくることで獲得する広がり。これは撮影補助の時にも顕著。モノを移動したり、光の入り方を調整したりとカメラマン含め常に何人か同じ空間にいるのにも関わらず、みなそれぞれ写真の映らない場所に収まることができる。つまりはかくれんぼがしやすいというか。。それは少し冗談だけれども。まるで真逆なのは興味深い。
外観の特徴でもある、吹き抜けと巨大な開口を持つ2、3階の居室空間は明るく開放的で、最初に言ったように部屋と部屋、部分と部分の関係が近い。構成を把握しやすいシンプルでシンメトリーな平面形もそのような感覚を与える原因か。プランの幾何学からなんとなく身体が正対しようとする壁は、ほとんどが開口になっている。左右の開口は内部によってか微妙にシンメトリーではない。2、3階の側面の開口は縦にそろっているけど、多分2階の開口の位置によって決まっている。
2階は全体的に家具が低く抑えられている気がした。机も少し低い。その分天井が高く感じる。吹き抜けもそうだけどかなり上に向かうべクトルの強い空間だと感じた。階段室はコンクリート打放しで、居室の開放的な空間とは対極の、非常に閉じた重い空間。階段室の開口部はアルコーブになっていて、窓台の奥行きが異常に大きい。最初は玄関から入ってまずその階段室を通るから、窓台のコンクリートの厚みとそれによって生まれる光の奥行きによって、コンクリートの重さを感じることになる。でも居室に入ると非常に軽い。逆にキッチンのおさまる壁は100mmとかで、それもすごく薄く感じられる。



とにかくこの対比を意識的に強くつくろうとしていることはすごく伝わってくる。この対比のせいかわからないが、内部にエレベーターが通っていることが何故か全く意識されない。
外観の大きさと、内部で感じる距離の近さというギャップは今まであまり感じたことのない体験だった。あとはやっぱりふたつの空間の極端な対比。ものとしておもしろいと思う一方、そこにどういう意味があるのかはまだよくわかっていないけれども。

切妻がもう一枚の平面で切り取られている。不思議な幾何学。