TITECH DIPLOMA

卒業設計これが最後の展覧会です。東工大百年記念館にて7/2~18まで開催。詳しくはここ


会期中は僕も交代で受付してるので遊びにきてください。プレゼンや東工大OBOGゲストを呼んでのディスカッション、フリーペーパーと盛りだくさんです。そこは本気です。よろしくお願いします。

simple

まず告知から、「第18回東京都学生卒業設計コンクール2009」に出展します。
ほぼ丸一日かけて行われる公開審査は生の議論が聞けるいい機会だと思います。
お時間あれば是非。
概要 
審査委員長:北山恒氏
審査副委員長:小玉祐一郎氏
審査委員:東利恵氏
審査委員:岡村仁氏
審査委員:ヨコミゾ マコト氏
日時:2009年5月30日(土)9:30~17:00公開審査/5月31日(日)10:00~15:00展示
場所:新宿・工学院大学キャンパス1階アトリウム(東京都新宿区西新宿1-24-2)
入場:無料
審査員と距離が近い講評会だから楽しみです。是非話したい。懇親会もあるようなので。
そういえば2ヶ月前に参加した「卒、」。
中山さんと藤村さんと議論したことをやっと消化することができた。
「コンストラクションとコンポジションの関係」、「複雑性」、中山さんが飲み会の時に評価してくれた、「まわりくどさ」感覚。
「ハウス・アサマ」の屋根、分節される空間のプロポーション、行為、窓の意味、それらが構造化された全体、がその全てを説明してくれた。構造化だろうか、建築と彫刻の違いのひとつは。気づいてしまえば何も難しいことは言われてないのに。シンプルでいいなあ。そんなに複雑じゃないと思う。建築の設計は。でもつまらないシンプルじゃない、今言っているのは。そういうことじゃない。そのシンプルさに到達した感覚は残念だけどまだないな。
文脈は違うけどいい意味のシンプルさで最近感動したTse Su-Mei。水戸で見てきた。めちゃいい。

"人図"をつむいで

3月の終わりにオーストラリアへ行き、環境と人の生活と建築の関係と、豊かな自然と豊かな生活に感動し、帰国一週間後に訪れた金沢で伝統工芸の素晴らしさと、文化があるという歴史の重みを初めて実感した。
ブリズベンは本当に素晴らしい所だった。皆が生活の中に、ごく自然に気取らず、構えることのない娯楽をもっている。それはいたるところで街の表情となってにじみ出て、建築にも表れる。

シドニーのオペラハウスはその圧倒的な存在感と、複雑な全体の形態からホールへのアプローチ、そしてタイルの割り付けにまで及ぶデザインの異常な射程に、自分は一体その入り口すら見ることができるのだろうかという未知の領域を感じた。
旅はいつも多くの価値観を揺さぶり、膨大な情報をいっぺんに投げつける。
それが豊かさへの第一歩と言えば言い過ぎな気もするが、帰国後に決めた朝早く起きるという習慣が自然に身に付き、九谷焼の文様がまだ時々頭を駆け巡る頃、今度はこのGWで北関東ー群馬・栃木・茨城ーを周ることになる。
レーモンド、磯崎新、妹島和世、隈研吾、野沢正光を見た。
群馬音楽センターはホールと二階のロビーが同じ原理で反復する折板構造の空間を二分しただけなのに、全然違う空間をつくっていることに驚いた。井上邸では、鋏状トラスが単なる意匠ではなく、資材不足・高騰等の諸問題を乗り越える中で生まれたテクノロジーだということを知って、衝撃を受ける。家具とか建具もすごくいい。

磯崎新はいつも全体像をバラバラに分解する。執拗にレトリカルで、スケールは人間を無視するかのように調整される。ただこの突き放すようなスケールは人間という主体と別の論理でできているように思えて、人間の身体性ばっかりが根拠になる建築のもつ「よけいなお世話感」に比べれば、今の僕は断然そっちの方に興味が湧く。群馬県立近代美術館と水戸芸術館を見て、広場の作り方がうまいと思った。

鬼石は今までにない不思議な空間体験と、何より建築家が建築を通してこの小さな街の在り方を、風景からも、人々の関係性からも大きく変えようとしていること、つまり枠組みの提案でもあることがすぐわかり感動。体育館で子供たちがバスケをし、孫をのせたおじいちゃんの自転車が建物の間の道を通り抜け、入り口で車をとめたおじさんたちが大声で話をしている。建物に沿った公園を散歩する夫婦がガラスの向こうに見え、管理人のおばさんが掃除をしている風景が同時にそれぞれに展開する。例えば平田さんの同時存在の感覚とはまさにこのことだ。作品集で見てた印象とはいい意味で全然違う。大きさも、周辺の公園や住宅との距離も、高低差も…
ただ雨漏りがあって、夏はものすごくものすごく暑いという話を聞くと野沢さんのような建築の方が住民には愛されるのかもしれない。チャレンジングと言えるのかどうかはわからないが、絵本の丘美術館は地元の素材を使った、こじんまりとしているが住宅のようになじみやすいものだった。

馬頭町広重美術館は最も良かったかもしれない。
確かにこの建築では、素材が建築の「存在」の問題に向き合うものとして最も先鋭化するというのが理解できる。新しい素材の使い方をテクノロジーのレベルで、今後も反復可能なものとして、かつデザインのレベルにも引き上げるというのはどういうことか目の当たりにした。ルーバー、深い庇、庇高さ、ガラス、和紙、が無駄なく、無理無く調整されている「うまさ」を強く感じる。
そこで「自然な建築」を買った。思ったより最近の本だった。「建築を存在として捉え直す」という言葉が気にいった。必ずいつも素材というかたちで存在の問題に向き合えるのか?という疑問はあるが、それについてはまた別に考えることがあるので今は伏せておこう。
大学2年のとき、造形演習という授業で「秘密」について考え作品をつくったことがある。
「情報として僕が受け止めることができた時点で、それはもう秘密ではないのです。秘密は僕自身、あなた自身のものであって、情報として出力されるものではないからです。僕にとって秘密とは、”僕の秘密”でしかあり得ない。どこで誰とつながっているか。僕自身もわからない。僕にしか感知できない。誰もが持つたった一つだけの秘密。一枚の地図とその余白。言うなればそれは、人と人とを結んだ僕だけの人図。」

隈研吾、井上房一郎、タウト、ターナー、ライト。。
”人図”がこの旅と本をきっかけにまた回り始めた。

今から

仙台行ってきます。
仙台行く人は、僕の作品の前でどよめいてください。
応援よろしくお願いします。

complex of phenomena

「complex of phenomena」
気候や時間の変化によって起こる現象が人と人の関係や人とものの関係、人と場所の関係にどういった影響を与え、どんな関係性を現象させ、どんな場所を生み出すのか。環境的コンテクストと社会的コンテクストの間に、どんな固有性を見出せるのか。
敷地は北の港町、北海道釧路。夏でも涼しく、海霧が頻繁に発生して街を覆う。霧の中で無限に拡散する光は幻想的で、非常に美しい夕陽が港の向こうに沈む。これらの自然現象は街の表情をがらりと変え、釧路の生活は常にそういったリズムと共にある。一方、中心市街地は駅前大通りを軸とする都市構造から、美術館や飲み屋街などの文化的ストックが並ぶ川を軸とする構造に変化した。そこで川と大通りの交点に、自然現象が新たな人の居場所や関係性を生み出すような建築を構想する。プログラムは市場とスパ。二次曲面が連続する架構は流れる霧、差し込む冬の光や夕陽に敏感に反応し、様々な場所をつくる。屋根裏をなめるように入る光が空間の表情を大きく変化させ、屋根と屋根の交線がつくる曲線のグリッドは平面に流れを生み出す。低く伏せた厚い屋根は厳しい気候に対する安心感を生み、奥行きのあるやわらかい光を取り入れる。自然現象というと曖昧で抽象的かもしれないが、漁業や炭坑などの産業が衰退していくのを目の当たりにした今、頼りない産業にすがり、一時的な流行に乗るよりもずっと確かなリアリティがある。固有の現象を空間に参加させ、社会的コンテクストとの重なりの中で新たな関係性を現象させることに建築の可能性を見出した。














宮城島崇人

卒制は終わらない



二日にわたって行われた学内講評会において、大岡山建築賞金賞を受賞しました。
手伝ってくれた人たちにいい報告ができて良かった。ありがとう。
講評会では狙い通り建築そのものやデザインの議論ができてよかった。と同時に一番当たり前だと思って特に言及していなかったことが実は一番伝わってないということを実感して反省。議論が終わる頃には大事なことほとんど全てを教授陣や観ていた人に伝えきった手応えを感じたので、まあギリギリ良しとしよう。非常に濃い議論ができて楽しかった。
さしあたり、
3/1に行われる「2008年度卒業設計合同公開講評会:東工大×藝大×東大」(概要下記)に出展します。自信を持って自分の建築をぶつけます。安田講堂ジャックです。準備に追われているも非常に楽しみ。毎年行列必至の講評会ですが、時間と興味がある人は是非見に来て盛りあげてください。よろしく。
加えて、
近代建築別冊『卒業制作2009』に代表として掲載予定。
デザインリーグ卒業設計日本一決定戦・横浜赤レンガ展・東京都学生卒業設計コンクール2009に出展予定。
詳細はそれぞれ随時更新します。応援よろしくお願いします。
2008年度卒業設計合同公開講評会:東工大×藝大×東大
●開催日時:3/1(日)14:00~18:00
●会場:東京大学本郷キャンパス安田講堂(東京都文京区本郷7-3-1)
ゲストクリティーク:石上純也、菊竹清訓、岸健太、佐々木睦朗、長谷川逸子、松原弘典
本年度退職される教授:坂本一成(東工大)、六角鬼丈(芸大)、鈴木博之(東大)
●定員:1200人
●参加費:無料
●問合先:卒業設計三大学合同講評会実行委員会/E-mail:jointcritique@gmail.com

夢からさめて-thanks-

ご無沙汰してます。
昨日卒業設計の提出がありました。無事、納得のいく最高のものを提出することができました。寝るのがもったいないくらい最高に濃厚で充実し、幸せだった夢のような4週間。力をかしてくれたみんなにありがとうをいいたい。
-thanks-
4週間という短い時間の中で納得のいくものをつくるために、本当に多くの人の助けをいただいた。手伝ってくれているのに怒られるなど、理不尽な思いをさせてしまったことを謝ります。そんななか、最後までついてきてくれたみんなに対して、言葉にできない気持ちでいっぱいです。本当にありがとう。躍動感のある、まるで一つのアトリエのようでした。
何の義理も何の報酬もないのに、こんなにもたくさんの人が真剣に僕のやりたいことに協力してくれているという事実をふと認識する度に、マジで泣きそうになったりちょっと泣いたりしました。幸せものだと思いました。最高の仲間と最高の時間を過ごせたことを一生忘れません。
チームの核として全てのことを本当によくやってくれた、りん、すぎ、入沢君、中村君。
朝夜関係なく時間があけば駆けつけてくれたともちゃん、吉田君。
東大卒制後からすぐかけつけてくれた、しゅんたろう、猪飼君。
もう最後だよといいながらしっかり支えてくれたなっちゃん。
テキから応援に駆けつけてくれた、みんなのアイドルしいちゃん。
一年生ながら徹夜で黙々と集中して作業を続けてくれた高橋さん、るい君。
ここぞという時に必ずいてくれたわたる。と、切り貼り職人の相方ガイト君。
最後の追い込みに加勢してくれた後藤さん。
建築学科じゃないのに、専門的なことまでほんと色々と協力してくれた松川。
たまたま東京に来てただけなのに手伝いに来てくれたてらち。
てらちを連れて応援に来てくれた今村。
本当にありがとう。
あとは僕が講評会で戦うだけとなりました。
皆の力を無駄にはしません。
作業に戻ります。また。

夢からさめて-content-

ご無沙汰してます。
昨日卒業設計の提出がありました。無事、納得のいく最高のものを提出することができました。寝るのがもったいないくらい最高に濃厚で充実し、幸せだった夢のような4週間。力をかしてくれたみんなにありがとうをいいたい。
-content-
「環境的コンテクストと都市的コンテクストの架橋」と、それによってできる建築、空間が常に人の居場所という視線で生成されているかということが今回の卒業設計の自分にとっての大きなテーマであったと思う。
環境的コンテクストとはそれこそ気候や地形、それらがつくりだす現象など。今回の設計敷地である釧路の場合、夏の涼しさ・冬の寒さと長い日照時間・海霧・蓮氷・夕陽・流氷・けあらしe.t.c..
都市的コンテクストとはその街のでき方や、構造、システム。もう少し広義に解釈するなら歴史的背景、生活様式、慣習要素など。
当然ながら包含関係で言うとこのふたつは独立したものではなくて、環境的コンテクストの方が少しメタ。
今の建築は、環境や自然と言えば環境共生とかパッシブソーラーとか、テクノロジーの話に傾きがちになるか、設計のシンボリックな軸として設計に伴う決定の免罪符になるか、もしくはピクチャレスクな風景を作り出すために安っぽく用いられるか、であるように思う(その点で西沢・妹島対談は僕の今の関心と非常に近くて面白かった)。それをもう少し人と人の関係、人とものの関係、人と場所の関係、人とプログラムの関係を変化させたり、発生させたり、それらの関係に、ある固有性を生み出すものとして建築をつくれないかと思ったのがはじまりだった。
都市的コンテクストとして、街の現状を考えると、全体としてはやはり人口は大きな推移ではないが減り続けてり、いわゆる地方都市の抱える問題をほとんど共有している。
駅前大通りからは商業の核が撤退し、企業営業所廃止に伴うビジネスホテルの需要拡大により、大きなホテルが立ち並ぶようになった。
ただそれは悪い変化だとは思っていない。もともと自動車交通に有利な道幅の広い大通りはもはや歩行者のものではなかったし、都市構造の変化に対応できなかった商業施設を無理矢理維持する努力ほど無駄なことはない。代わりに、ホテルであっても市街地の人口密度があがるということはそれだけで色々な可能性を見出すことができる。駅前から大通りを中心とした都市構造から、芸術館や美術館、会議場や埠頭広場、飲屋街など文化的ストックが川沿いに連なる都市構造が浮かび上がってきた。今回のプロジェクトはその文脈にのっている。
プログラムは駅前から移転する市場を中心にスパを伴うもの。
光や霧、雨などを扱う屋根が空間を分節しながら大きな市場を覆い、天気や季節、時間によって集合的な、あるいは離散的な場をつくり、様々な関係性を現象させる。そんな建築である。
23日の講評会がお披露目だが模型写真を一枚そえて。

行事としての論文はここで締める

あまりにも論文にかかりっきりでご無沙汰してました。
研究室にはほんとに迷惑をかけてしまったけれど、17日の論文発表会を最後に、自分の無力さを痛感する通過儀礼としての論文はひとまず終了した。自分のものとして深めて行くには、これから先まだまだ長い付き合いになりそうだが。
梗概提出、本論提出、発表会という最後のほんの2,3週間で、自分の認識が一週間前のそれと全然違っている感覚は、驚きでもあり少々気味悪くもある。
論文で感じたこと。
言葉の差異と実際の空間の差異には埋められない差がある。今回自分は最後までそのように割り切ることができないでいた。屋根が水平っていったって、厚みとか光沢とか全然違うから同じとはいいたくない。。終始そんな感じで、似ているとはどうことなのかという視点が欠けていた。
言葉や概念はやっぱり独立した体系であって、建築的知識、知恵、経験、感覚の体系とは部分的にしか重ならない。そのことは体験的にわかった。そしてそれぞれのつくる認識がお互いの認識を相対化することに論文の意味があると今は理解している。(ただそれはすごくメタな次元の話で、こんなゲームみたいなことに何の意味があるのかと、論文やっている最中はよく思っていたが。。)
そして論文をどこまで共有できるものとして再編集できるかもこれからやりたいこと。メイド・イン・トーキョーみたいに。
もうひとつ感じたのは、自分でデータを集め、自分で分析することの強さ。時代と逆行しているから、ほとんど全ては参照で済ますんだろうなと思う一方、世に溢れるエッセイの類いが、いかに不確かな情報の断片を元につくられているのかが良くわかる。意匠論は全然サイエンティフィックじゃないけど。。世の中の文章を見る目が少し変わる。
とは言え、論文に関しては手を引かれてやっと入り口まで連れてきてもらったようなもの。せっかくここにいるのだから、そのなんたるかを自分のものにしてからここを出たいと思う。

ラッシュ

頭を整理する時間もブログを更新する時間もない。だから近況みだれうち。

アトワン作、ジューシーハウスの撮影。
オレンジの空間は想像していたのと全然違って驚いた。意外にすぐ順応してしまう。もっときついのかと思っていたが、全然そんなことはない。天高2000くらいの廊が三階まで吹き抜けの空間をL字に囲う。上下が白い空間ではさまれているのが効いている。非常に明確な分節。大きな開口から入り込んでくる外の風景すら自分のものにしてしまう包容力があのオレンジの空間は持っていた。色は本当に面白い。まだなかなか模型ではわからないなぁ。一階の目地無しテラコッタの床がすごくよかった。

帰り際、初めて代田の町家を見た。外から見ているのに内部を感じる。自分がそっち側に入って内部を体験しているような。もちろん全てが見えているわけではない。見えない開放性とは何だろう。



アスプルンドの作品集を見て鳥肌がたった。2年前に汐留に展覧会に行った時とはまるで違って見える。
数年後はどう見えるだろう。こんなにもやさしく、それでいて凛とした空間がつくれたら。

論文はシェードのかかった「パブリックスペース」を題材にしている。
都市的なスケールを持ったシェードが都市の中で、都市のどんな文脈に応え、都市に対してどんな応答をし、どんな風景をつくっているのか。扱っているものの多くは高さをゆうに20mを超えるものがごろごろ。ヒューマンスケールとはかけ離れている。機能や合理性を問題にしていないもの、モニュメントでしかないもの、明確な機能に支えられているもの。様々だ。
シェード空間の包容力と冗長性を、そしてそういうものが存在するための枠組みとは何かということに迫りたい。写真を見ないと想像がつかないかもしれない…が次の機会に譲ろう。

地元釧路の新しい総合運動施設は市民の寄付によって建てられた。もちろん全額ではないだろうが。必要なものが市民の寄付で自主的に建てられる。もちろんこのようなことが頻繁に起こるとは思えないが。
メディアをフルに使えば地方は変わる。おそらく劇的に。20万人都市というサイズそのものに何か別の可能性を感じている。建築が存在する枠組みは変わる。このできごとをどう位置づけるか。

気温が下がって気持ちがいい。春と秋と冬が好きだ。