その落書きみたいな建築

昨日もスタジオでは色々な事件が起こった。当初の予定だと、もう個人作業に移行するタイミングなんだが、一昨日の議論の延長で、もっと現状について詳しく知る必要があるからと、20人くらいの学生が、ひとつのグループとして作業をしたいと訴えたのだ。というツイートの続きから。

彼らの主張は、このプロジェクトを考えるためには、実際に何が起こっているか、もっと詳しく調べたいということ。(そしてこれはどうなるのかわからないけど、情報を共有しつつひとつか複数かわからないけど作品を提出するのかな。)リアリティが湧かないということなのかもしれない。でもそれは特に僕のように、言葉も文化も考え方も違う国からやってきた者にとってはなおさら。モロッコだってカサブランカだって、どんな所か全く想像がつかなかった。だから、できるだけその場所のことを知りたいと思った。敷地にも行ってみたいと思った。
 ただ同時にどこまで知ることができるのだろうと思う。グローバルに建築をつくるとはどういうことかという問いでもある。いまここで手に入る、カサブランカについての情報は、ネットだったり本だったり、facebookのコミュニティページ(これが以外に使える。でもアラビア語は無理)だったり、行ったことのある人の感想だったり、そういうものだけれども、どれもある断片を垣間見せるだけで、全体像は自動的に構築されてはいかない。それは多分敷地に訪れたところで同じ。
僕はその全体像を構築していく作業が、そのまま設計行為だと思っているから、設計しながらじゃないと、情報が効果的に処理できない。
でも情報技術によってその情報の処理能力がどんどん増えていくとしたら、あらゆる変数を参加させたらどんな建築が生まれるのかという可能性と、同時に空間がどれだけそれを独立した変数としてではなく、ある複合した状態として顕在化できるのかという可能性があるのだと思う。
実際的には、情報の精度も、量も、どこかで線引きしないといけない。というか、ある時点でそんなに情報は必要なくなってくる。どんどん空間の問題に変換されていく。
もっと知りたいこと、それはもうたくさんあるけれども、このスタジオで、僕は、富める人も貧しい人も、全然違う人種も、動物も植物も、光も風も、何でも共存できるような場所をつくりたい。スラムをいますぐ一掃したり、経済格差を解決することなんて建築にはできない。でも色んな階級の人たちがごっちゃにいても違和感のない空間をつくることは、きっと建築にできる。それでいて、どうしても現実的に対応せざるを得ない部分もまた顕在化してくる。この大きな敷地で、この辺で起こっている色んなことを顕在化したような都市のような環境のような空間がどんなものか試したい。
20人で一つのプロジェクトに取り組むとしたら、個人でやっているプロジェクトと比べて、情報量も、完成度もクオリティも高くなるだろう。間違いも少なくなる。でも、だからといってすごい建築になるかは全く別の水準の問題だと思う。ただ本当にそうやってひとつの作品ができるとすれば、それにはすごく興味があるし、楽しい。見てみたい。
彼らのスタジオでの姿勢は、情報とその処理、条件の選択と建築設計に関わる問題提起でもあったけれども、設計の方法論への直接的な関心というよりは、どちらかというと建築家の社会的位置づけに対する関心なんだろうと思う。そういうニュアンスを強く感じる。もう少し様子を見たら色々と話してみよう。
僕は、一人の人間の構想力というものに惹かれる。だからそれを鍛えたいと思う。
それはもちろん一人きりで作業するとか、誰とも相談や議論をしないとか、情報を遮断するとか、そういう意味では全くない。構想力というのは、情報の処理能力のことでも決してない。どういう問題や条件を選択して、それをどうくみ上げて、ひとつの空間にするのかということ。一人といっても、ある環境の中で色々な人やモノと関わりながら漂ってる自分という部分に過ぎないのだけど。
創造的に乗り越えるという言葉が好きだ。
西沢立衛さんの「西沢立衛建築設計事務所スタディ集」を、昨日ETSAMの巨大な図書館で見つけて読んで、その言葉を見つけた。スタディという行為そのものと、そしてそこから生まれてくる様々な可能性に溢れた魅力的なモノたちについて書かれたその文章の中に。
「膨大な費用と労力をかけたCGを、5秒くらいで描かれた落書き一枚が、創造的に乗り越えてしまうこともある」
だから、そういう落書きみたいな建築を、ここで考えられればなと思っている。

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