小旅行

午前中に起きて突然思い立ち、21-21・「祈りの痕跡展」へ。
久しぶりに街に出るとわくわくして仕方が無い。気温も下がってきて外に出るにはいい季節になってきた。気がついたら陽射しは秋のそれに近づいている。忙殺されて気付けば夏が終わりかけているが、僕にとっては都合がいい。それでもまだ暑すぎる。。
展示では文字はもともとは三次元なんだという当たり前のことに改めて気付く。微差がありながらも同じ形式を守り、大量生産して羅列するものが多かったのは、まさに文字(記号)の特質そのものだから。元棟梁のおじいさんが引退後、雑紙でつくり続けたという封筒(5,000枚!のうちの700枚が展示)は不思議なオーラを放っていた。
ナポレオンの腕木通信という面白いものをはじめて知った。
21-21は今までにも何度か足を運んだが、空間の構成が建築によって強く主張されているから、それぞれの場所性が強すぎて、違う展示をやっても逆に均質化してしまっている気がする。動線が一筆書きだからシークエンスも一緒だし。動線は同じく一筆書きでも、僕が大好きな神奈川県立近代美術館は、各場所が個性のある非常に豊かな空間を持ちながらも切り替えと連続にリズムとタメがあって、もっと自由な気がする。ストーリーが常に再構成可能な、離散的な方が面白い。21世紀美術館とかやっぱりいいと思う。


学校に戻り先輩が担当する住宅の見学へ出発。上棟が済んだ段階。数字で聞く延床面積と目の前にある建築の広さが一致しない。一般的には決して広くない面積だが、縦長に抜ける空間はかなりインパクトがあって気持ちいい。模型作成時から思っていたが、小さい空間に大量の言語が投入されていてかなり挑戦的な建築である。竣工時も是非見に行きたい。
その後は塚研先輩同期とぶらぶら。 ノリでおみくじひいたら大吉だった!
いいことしか書いてなかったからお守りにします。
注意書きには…
「大吉だからと言って、油断したり、高慢な態度を取ったら凶に転じます。」だって。気をつけます(笑)


休憩に入ったカフェで建築談義。非常に面白い。ラフに言うと、建築は当然、社会制度・経済・法規といった様々な条件と向き合うことになるが、そういった部分と建築の空間を考えるプロセスは一度切断した上で、空間で思考・解決する方が建築的イマジネーション(空間的思考)を発揮でき、自由な空間をつくれるのではないかという考え方と、それを建築設計のプロセスに組み込むことこそが新しい建築の可能性を開くという考え方に分かれる。
この議論の伏線は建築が効果という言葉で説明されるという点にある。自分なりの解釈では
・前者は後者に対し、できる空間が目的を叶えるために奉仕するかたちになり、デザインの質や身体性は改善されていたとしても、よりストレスレスな、身体に優しい強力なアーキテクチャーの構築に加担しているに過ぎないのではないか、と主張。
・一方後者はその効果を生むため、経済などの条件と格闘するプロセスを設計に組み込むことが新しい建築の空間を生み出す可能性をもっていると主張。
自分自身はどちらかと言えばやや後者寄りだが空間のイマジネーションがつくり得る建築の、自立した価値体系も必ずあると信じている。ただそれだけで経済等を相対化できるというほどの信頼は持っていない。後者は建築を社会に接続するために有効で、かつそういった社会のダイナミズムとのコミュニケーションから新しい建築像が現れる可能性も感じる一方、それが単に建築が人間をより効率的にコントロールするためというロジックに回収されるのを乗り越えないといけないだろう。こういった視点で現在の建築の状況を整理しなおしてみようと思う。

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