実験的スタート

日々の経験や思考の足跡を整理して残すこと、そこから自分のスタンスを確認すること、自分の創作にフィードバックすること、そういった軌跡を発信すること、を目的に実験的に進めて行くつもりです。なるべく近いうちにmixiと連動させて知らせたい。自分の電子エスキス帳であることに変わりはないけど、色々な考えや思考を伝えることで、何か新しいものを生み出す原動力になればいいと今は思っている。
ではさっそく…17日。
某設計事務所のパーティで色々な建築関係者と話す機会があった。日建設計や色々なアトリエ系建築事務所のスタッフ、大学の先輩後輩などなど。
前から挨拶したかった人に挨拶できたり、たくさんの初対面の方々と話すことができて充実していた。何度か参加させてもらったパーティの中でも一番充実していたかも。色々話すことができるようになってきたからか。。日建設計の人は建築に対する熱い想いを熱く語ってくれた。言うまでもないけど、ゼネコンだろうがアトリエだろうが、熱い人は熱い。建築に夢を持っていることが伝わってくる。建築家はリアルに経験したことじゃないと設計できない、或は経験の伴わないものは強度が低いから、実体験をもとに自分の信じられることをするべきなんだということだった。一体今どれだけリアルなものを建築家はつくれているのかという問いを発していたように思う。イマジネーションの問題でもあると思う一方、先日見に行った仙台日本一決定戦で起こっていた議論と通じるところがあるのを感じた。
3/9、講評会場の仙台国際センターでは内的建築と社会派建築という二つの枠組みで議論が進んでいた。内的建築代表は日本二位になった作品。彼女は表現こそ違うが「自分のことしかリアルに感じられるものは無いし、だから自分のための建築しか考えられない。卒業設計は皆なんらかの問題を探し、それに対してどう応えるかというアプローチが多いが、実際そんなに問題だと思ってないんだろう、自分がそれに対して関心があるように装っているだけだろう、みんな嘘つきだと主張。一方講評会の議論に従うと社会派代表に位置づけられていた早稲田組は、問題発見までのアプローチは丁寧で力が入っているが、建築はそれに応えきれていない印象を受け、結局巨大なインフラが好きだったんですなどと言ってしまう始末。これを見てしまうと彼女の主張は実際そんなに的を外していないように思える。(もちろん建築的なイマジネーションはもっと広く開かれているものだと思うが。)卒業設計講評ではつきものの、「とにかくこういうのがやりたかったんです」型と「問題解決」型の対立。議論はいつもその二項対立になるが、両者はそんなに違わない。「こういうことがやりたい」という感覚や価値観を持つ自分が社会の中にどう位置づいているのかということが重要であり、そういう自分が社会の何を代弁しているのか、私の声でしかないのか。問われるべきはそこだと思う。そういう意味では、伊東豊雄氏だけがその議論の二項対立に対し、「身体感覚の違いの問題だ」と再三述べていたことが印象に残る。(内的建築に未来は無いと、社会に対してメッセージを発しようとする建築の在り方を肯定する貝島氏に対し、だからそれはあなたの身体感覚の問題だと繰り返した)
身体感覚、それは物理的な感覚はもちろん、社会という空間でのそれも指す。
自分の身体感覚に自覚的になることが、設計にとっても、作家性にとっても非常に重要だと最近感じている。

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