その落書きみたいな建築

昨日もスタジオでは色々な事件が起こった。当初の予定だと、もう個人作業に移行するタイミングなんだが、一昨日の議論の延長で、もっと現状について詳しく知る必要があるからと、20人くらいの学生が、ひとつのグループとして作業をしたいと訴えたのだ。というツイートの続きから。

彼らの主張は、このプロジェクトを考えるためには、実際に何が起こっているか、もっと詳しく調べたいということ。(そしてこれはどうなるのかわからないけど、情報を共有しつつひとつか複数かわからないけど作品を提出するのかな。)リアリティが湧かないということなのかもしれない。でもそれは特に僕のように、言葉も文化も考え方も違う国からやってきた者にとってはなおさら。モロッコだってカサブランカだって、どんな所か全く想像がつかなかった。だから、できるだけその場所のことを知りたいと思った。敷地にも行ってみたいと思った。
 ただ同時にどこまで知ることができるのだろうと思う。グローバルに建築をつくるとはどういうことかという問いでもある。いまここで手に入る、カサブランカについての情報は、ネットだったり本だったり、facebookのコミュニティページ(これが以外に使える。でもアラビア語は無理)だったり、行ったことのある人の感想だったり、そういうものだけれども、どれもある断片を垣間見せるだけで、全体像は自動的に構築されてはいかない。それは多分敷地に訪れたところで同じ。
僕はその全体像を構築していく作業が、そのまま設計行為だと思っているから、設計しながらじゃないと、情報が効果的に処理できない。
でも情報技術によってその情報の処理能力がどんどん増えていくとしたら、あらゆる変数を参加させたらどんな建築が生まれるのかという可能性と、同時に空間がどれだけそれを独立した変数としてではなく、ある複合した状態として顕在化できるのかという可能性があるのだと思う。
実際的には、情報の精度も、量も、どこかで線引きしないといけない。というか、ある時点でそんなに情報は必要なくなってくる。どんどん空間の問題に変換されていく。
もっと知りたいこと、それはもうたくさんあるけれども、このスタジオで、僕は、富める人も貧しい人も、全然違う人種も、動物も植物も、光も風も、何でも共存できるような場所をつくりたい。スラムをいますぐ一掃したり、経済格差を解決することなんて建築にはできない。でも色んな階級の人たちがごっちゃにいても違和感のない空間をつくることは、きっと建築にできる。それでいて、どうしても現実的に対応せざるを得ない部分もまた顕在化してくる。この大きな敷地で、この辺で起こっている色んなことを顕在化したような都市のような環境のような空間がどんなものか試したい。
20人で一つのプロジェクトに取り組むとしたら、個人でやっているプロジェクトと比べて、情報量も、完成度もクオリティも高くなるだろう。間違いも少なくなる。でも、だからといってすごい建築になるかは全く別の水準の問題だと思う。ただ本当にそうやってひとつの作品ができるとすれば、それにはすごく興味があるし、楽しい。見てみたい。
彼らのスタジオでの姿勢は、情報とその処理、条件の選択と建築設計に関わる問題提起でもあったけれども、設計の方法論への直接的な関心というよりは、どちらかというと建築家の社会的位置づけに対する関心なんだろうと思う。そういうニュアンスを強く感じる。もう少し様子を見たら色々と話してみよう。
僕は、一人の人間の構想力というものに惹かれる。だからそれを鍛えたいと思う。
それはもちろん一人きりで作業するとか、誰とも相談や議論をしないとか、情報を遮断するとか、そういう意味では全くない。構想力というのは、情報の処理能力のことでも決してない。どういう問題や条件を選択して、それをどうくみ上げて、ひとつの空間にするのかということ。一人といっても、ある環境の中で色々な人やモノと関わりながら漂ってる自分という部分に過ぎないのだけど。
創造的に乗り越えるという言葉が好きだ。
西沢立衛さんの「西沢立衛建築設計事務所スタディ集」を、昨日ETSAMの巨大な図書館で見つけて読んで、その言葉を見つけた。スタディという行為そのものと、そしてそこから生まれてくる様々な可能性に溢れた魅力的なモノたちについて書かれたその文章の中に。
「膨大な費用と労力をかけたCGを、5秒くらいで描かれた落書き一枚が、創造的に乗り越えてしまうこともある」
だから、そういう落書きみたいな建築を、ここで考えられればなと思っている。

離れていても

朝晩は冷え込むけれど、まだまだ暑いマドリッドです。
風邪がなんとなく完治しないまま長引き、ビザの手続きやなんやかんやで痛い目にあいつつも、グループ作業で議論したり、建築を見に行ったり、スペイン語の勉強をしたりと、こつこつやっております。宇治の整備計画ももちろんこつこつマドリッドで作業しているわけで。
出国前に宇治で行ったワークショップの様子が記事になっているので紹介します。

関心の低さ。そうですね、まだまだこれから。始まったばかりです。
今は文化的景観という文化財指定を受けての補助金利用、整備計画だけど、それだけだと、生活に密着した切実な課題に対して取り組むことがなかなか難しい。ここを入り口にして、宇治全体のurban designを視野に入れないと、そこへ位置づけないことには、この計画はほとんど意味をもたない。
そしてそれが新しい建築に、新しい都市空間の創造につながっているのだろうかと、自問自答を繰り返す。もちろん、ほんとに自問自答だと、プロジェクトは動かないのだけれど。
「自分はいつも初めての、やり方の決まっていないことに取り組んできた。だからそういう訓練を君たちは研究室でも積んできたはずだ。」と、最後の会で受け取った、師の言葉を思い出し、いいプロジェクトにしてやると誓う。

el vacío como lugar/場所のような空白

el vacío como lugar/場所のような空白
とは何かを考える。

何かがなくなるということを目の当たりにしてからそう日が経ってない。
生きることは建てること、築いていくことなんだなとふと思う。
真っ先に建てられた新しい電線。
人は片付け、秩序をつくり、また築く。
ばらばらでめちゃくちゃだった空間が、どんどん空っぽになっていく。
からっぽになっているのに、秩序が生まれ、またなにかが始まる場所みたいになっていく。
そういうことに、初めて気づいた。

MANSILLA+TUÑÓN studio

マドリッドに来てちょうど2週間が経過。
到着時、後期の授業はすでに始まっていて、色々見て決めようかとも思ったけれど、どうしてもMANSILLA+TUÑÓNに一番惹かれるので(でもインターンは絶対Antón García-Abrilのとこに行きたい)、MANSILLA+TUÑÓNスタジオに決め、早速濃い毎日が始まっています。
プロジェクトサイトはモロッコのカサブランカで、何故アフリカ?と思ったけれど、カサブランカは1515年からポルトガルに主導されて街が整備され、リスボン大地震によってポルトガルが引き上げてからは、スペインとフランスが介入、一時フランスの保護領になるなど、ヨーロッパ各国と文化的にも経済的にも強い関係を持つ。農村から都市部への人口流入が継続し、経済格差はスラムとなって表れる。港を中心とする旧市街地は、多くの観光客が訪れる観光地になっているようだが、興味深いのは、旧市街地の周辺に拡大されていった新市街地で、ここは都市の人口増加に対応し、スラムの拡大を防ぐための、安価で大量の住宅供給という使命が課せられた、いわばモダニズムの実践の(というか実験の)場であった。こうした開発は主に保護領末期の1940年代に始まる。
※1
Michel Ecochardが組織した、モロッコ現代建築家グループのGAMMA、後のCIAMMorrocoによる、ソーシャルハウジングを中心としたアーバンデザインによって骨格ができ、その後は、住民の領有と増築によって、平屋の中庭型住居が数階建てに増築されたり、バルコニーが全て内部化されたり、住民の故郷の様式が再現されるなど、たくましい変容を遂げて今に至る。
※1※2
街区ごとに異なる開発は、それぞれに意図する思想や生活のイメージの違いを平面に印していて、まるでピラネージのコラージュ画*3「古代ローマのカンポ・マルツィオ」のよう。左がカサブランカ。

ソーシャルハウジングは、スラムの住人に住居を共有することがひとつの目的であったからなのか、スラムに近接し囲い込むようにつくられている。そこに学校やモスクができ、マーケットが生まれといった具合に、様々な要素や領域が混在している。このプロジェクトの最終的な成果物は、その中に位置する敷地にマーケットや学校、駐車場等を含んだ公共空間をつくるというもの。
ただスタジオは、それまでにいくつものプロセスを踏むようにデザインされていて、動画をつくったり、敷地の分析といっても新たなカルトグラフィ(製図法)を求められたり、アプローチは非常に新鮮で面白い。
敷地の分析として作成する、”自分たちの地図”は、アーバニズム的な表現を意識的に避けるようにしている。例えば何かの要素をプロットして、それを重ねて終わり、とはならない。注目した要素やその変数どうしが、どう関係しあってひとつの自立した関係図を形づくるのか、そしてそれをどう表記するのか、そのように収集したデータを変換しながら進んで行く。
情報の共有性が特に重要となるプロジェクトでは(例えば宇治のプロジェクト)、特別な表記法を考えても、共有できないんじゃないか、それなら、できるだけオーソドックスな表記法で伝わるようにする必要があるのではないかというふうに考えていたが、挑戦する価値はある。
宇治の整備計画ではまちづくりと都市計画と建築設計とアーバンデザインとシティプランニングと、なんと呼べばいいのかわからない状況のなかで試行錯誤してきた。色々な矛盾を感じ、葛藤があった。それは今も変わらないが、こっちで色々と整理して、これまでやってきたことを見直したい。
このスタジオではすごくいい収穫ができるんじゃないだろうか。
そうじゃなきゃね。
※1「Architecture Without Architects―Another Anarchist Approach」Marion von Osten
http://www.e-flux.com/journal/view/59
※2「CIAM遺産の今」http://www.gakugei-pub.jp/mokuroku/book/5290fes/col4.htm
*3 遺跡調査による復元図であると共に、空想によって不明部分が補われた結果、幻の都市のコラージュ画とも言える。「ICC ONLINE 海市/シグネチャーズ/招待建築家リスト」http://www.ntticc.or.jp/Archive/1997/Utopia/Model/Signatures/index_j.html

diploma exhibition 2011

東工大のdiploma exhibitionが東工大百年記念館で開催されています。
僕の修士設計が展示されています。模型も展示されています。
残念ながら僕もまだ見れていませんが、お時間があればのぞいてみてください。百年記念館見るだけでもいいです笑。
とは言わずに、現M1たちも頑張っているようなので、見てあげてください。よろしくお願いします。
詳細は→http://www.arch.titech.ac.jp/Japanese/Events/events.html
東京に行ってビザを申請したり塚本研究室に顔を出したり、東北を視察したり、京都で塚本先生と再会したり、村松研のみなさまとお会いしたり、京都の寺や川床を満喫したり、宇治の調査をしたり札幌に戻ったりと、充実した二週間と少しを過ごしました。
東北についてはまた別の機会に書くでしょう。
今日の朝また宇治に戻ります。札幌はほんとに気持ちいい最高の季節なのでもう少し居たかった。まあ京都のうだるような暑さも悪くないのだけど。明日からは通りの家屋調査に同行し、昭和になって色々と改造されてきた町家を実測調査します。週末はワークショップというかたちで、宇治橋通りの変遷と、現在の通りがどのような建物で構成されているのかということ、宇治橋通りのユニークさについてのプレゼンです。
観察しだいで色んな認識ができる。その面白さを共有できれば、これまで建ってきた建物が共有してきた設計条件が見えてきて、整備計画といったときに、設計条件を共有できるようになる。そこが建物の世代論と設計論の交点だ。
diploma projectでやったことが、枠組みや論理を構築しつつ建築の新しい可能性を追求するものであったとしたら、今やっていることもその延長であることには変わりがないけれど、より実践に身をおきながら、色んな建築に触れて色んなことを考えます。
そして富永さんのコルビジェの本に今日はまった。
宇治橋通りの整備計画もあれば、実施の建築も進んでいます。
そういう期間です。スペインに行くまでの、短い夏の時間です。

京都にて

北大に入って2ヶ月と少し。宇治のプロジェクトが本格的に始まって半分札幌、半分宇治居住になって約一ヶ月。宇治のプロジェクトというのはある地域の整備計画。具体的な内容は進行中だから背景だけ。
宇治は重要文化的景観に選定された。重要文化的景観とは文化財の新たなカテゴリーで、簡単にいうと、生業やそれに関連する文化によって生み出された環境全体を対象にしたもの、だろうか。名前こそ聞き慣れないが、その場所での産業とか、文化とか、慣習とか、建築とか、都市とか、地形とか、風景とか、そういうものを、有機的な関係をもった環境として捉える考え方には、感覚的にも理論的にもなじみやすい。
1975年に設けられた伝統建造物群保存地区というのが、建築単体の保存から、建築群の保存への拡張であったように、文化的景観は、ある特定の地区だけでもなく、それを取り巻く地域環境全体へと拡張されたものだと言えばわかりやすいだろうか。と言っても環境全体なんてコントロールできるはずもなく、凍結保存は不可能である。そしてもはやこれは”保存”の枠組みではない。なので、文化的景観の意義は、地域のコンテクストの共有と価値の共有。またそれが第三者から評価されるということにある。繰り返すが、これは保存の枠組みではなくて創造の枠組みであると考えた方がいい。だからこそ今回考える整備計画とは、保存計画ではない。というか保存と創造を分けない。古いものと新しいものを分けない。不要なものと必要なものを分けない。ということなんだと思う。考え方としては。
といってもまずはなにより観察である。
茶業に関連する建築形式と都市形態の関係は本当におもしろい。平安期の道と中世の道によって構成される独特の街区形状を下地に、そこで展開されてきた茶産業と建築の変遷。宇治の町家ならではのユニークな建ち方と表情、そしてそれらがつくっていたまちの風景。現在のまちにもその痕跡がありありと刻まれている。急激な近代化によって生まれたものと破壊されたもの。時には目を背けたくなるような痛々しい破壊がそこにある。とは言っても無くなったものを嘆いてばかりでは仕方が無い。街は今だって生きているから、これからどう育てていくかということが主題だ。
一ヶ月前にこの街を見た時、至る所に残る町家や、まさに新茶摘みに忙しい、活気ある美しい茶畑や、もくもくと湯気を出しては不器用に動く茶工場に興奮し、色々な可能性には気づいたものの、一体何をどうすれば、と思って正直少し途方に暮れた。問題も、目的も、主体も曖昧だと思った。その状態で、制度だけが黙々と期日を目指して進んでいる感じがした。
それでもじっくりと向き合えば色々と見えてくるもので、このまちの何を観察すればいいのか、何が面白いのか、何が大切なのか、つかめてきた感がある。スピード感も出て来て、面白くなってきた。
話は少し変わるが、京都というのはやっぱり建築を学ぶものにとってはすごく大きな存在だとしみじみ感じる。京都に住めるから寺でも町家でも見放題だなと思ったら、忙しくて全然それどころじゃないが。それでも京都にしばらく身を置く、それはとても大事な時間だ。
つい先日、お世話になっている先輩と町家歩きに行ってきて、そこで大きな衝撃を受けてきた。とにかくどの家主さんも、家褒めがすごい。心から愛している。建物をこんなに生き生きと豊かさいっぱいに語る術をぼくはまだ知らない。その尽きることのない家褒めが、いやらしく感じないのは、皆自分の家を褒めながら、京町家という全体性を褒めているからだ。その全体性の中にあって、自分の暮らしと家との間に生まれる関係に、差異を見出して表現としている。京町家での生活を誇り、そういった魅力や大らかさを失ってしまった現代の建物に嘆く家主の姿をみて、自分たちは一体何をやっているんだと、重い責任を感じたのは間違いではあるまい。少なくともいいものを知らないというのは建築家失格だ。
もうひとつ驚いた。ある家主から「都市生活者としての自覚」という言葉が出て来たことに。そんな言葉は今まで人の口から聞いたことがない。都市生活者として最も避けるべきは他人の迷惑になることで、その一番の要因である火事に備えて、この大いなる無駄である通り庭の吹き抜け空間がある。そしてこの場所が一番すきだと。
最近、京都駅のその巨大な半外部空間は、ヨーロッパのターミナル駅のそれだと気がついた。大都市である京都(規模というよりはなんというか、存在としてかな)にふさわしい、現代的なスケールをもった都市構築物で、大いなる無駄でもある巨大なこの駅は、都市生活者の自覚なんだと言った通り庭の吹き抜けと、重なって見えないこともない。

修士設計

ひと区切りついたので、修士設計アップします。
羊の話からはじまって、直接的には羊牧場を扱うことはしなかったけれども、人がどこかに住むという当たり前のことを深く考えさせられた。人がどこかに住むということは、その人の生きる条件をある部分で決定的にかたちづくるのだろうけど、すでに社会は相対的で選択可能だし、同じように、生きる場所を自分で選択できるという開放感(それはもちろん今までなかったわけではないけれど)が現代にはあって、移住者と接して感じたのは、そうやって自分の生きる条件を自ら選択することの前向きな強さと自由さだった。例えばコンパクトシティ(自体は考え方だから否定するとかしないとかじゃないけれど、その説得力が故に、唯一の方法みたいに固定化してきた感があって、そこにはちょっと暴力すら感じることがある)というのがあるけれど、それがいくら色んな観点から正しくても、そこで生きたいっていう自由とともに、いや、そこでは生きたくないっていう自由があって、当たり前のことなんだけど、そのことがすごく痛快だと思った。
日本は人口が減少することが、ほぼ明らかになったようだけど、人がどこに住むかという選択や、国内や海外の流動人口まで視野に入れると、なにか新しい都市空間や開放的で自由な状況が日本に生まれるかもしれないというのが、漠然と抱いた期待と仮説だ。(今回の大震災では、また少し別の意味で、生きる場所という問題が立ち上がってきたように思うが。。)何かそういう関心から、人が移動することとか、どこかに生きるということと、現在日本が抱えている色んな社会状況を結びつけて枠組みを構築するために、様々な流動人口を抱える北海道美瑛町というところを事例に選び、プロジェクトとした。
「農業と観光を媒介とした新たな都市空間の提案」
―北海道美瑛町をケーススタディとして-
Proposition for a New Urban Space mediated by Agriculture and Tourism
-A case study of Biei-town, Hokkaido-
要旨
雄大な農業景観を有する北海道美瑛町には、人口1万人に対し年間120万人が訪れる。その内訳は、夏に多い国内外からの短期旅行者、都会と農村を往復する二地域居住者、中長期間滞在する移住体験者、新規就農を目指す研修者など様々である。こうした多様な滞在者を一括りに観光客とみなして観光開発を行うのがこれまでの一般的な傾向であったが、多くの人が出入りする律動性を受容する、新たな都市空間を構想することによって、滞在者を新たな“住民”と捉えることができる。本計画は、多様な滞在者の受け皿や、定住民との接点となる公共空間を、農地と市街地の風景を調整するものとして計画することを通して、季節性の人口変動を伴う農業都市に対する、持続的で伸縮性のある空間的枠組みを提案するものである。
人口に対する多量の滞在者や、季節性の人口変動は、従来の施設計画によってできたまちが前提とすることのなかった新しい都市的現象であり、定住民に対しては不自由のない施設計画であっても、外部から訪れる人が利用したり、定住民と交流する機会を生むような公共空間は不足していると考えられる。そこでテンポラリーな住民と定住民のための新たな公共空間を、農地と市街地の境界(エッジ)と、現在市街地の中心に位置しながら市街地を分断している線路沿空間に計画する。エッジには、多様な観光客の滞在場所となり、かつ定住民も使えるような公共空間を、既存公共施設をネットワークするように配置する。線路沿空間はどこからでも入れる緑地帯とすることで、分断された市街地を結ぶ公園のような空間とする。また、本数の少ない列車のスケジュールを再検討することによって、駅の機能を保持しながら新たなプログラムを同居させ、既存駅を覆う大きな屋根をかけることで、誰もが参加できるような、開かれた半屋外の公共空間を計画する。交流施設のプログラムとしては、これまで施設の縦割りごとに細分化されていた美瑛に関する情報や知を一カ所に集め、その集合知を誰もが共有し深めることができる ”美瑛学”の場を想定する。これらの統合により、季節の変化や時間帯によって、様々な主体や活動を受け入れる、寛容で伸縮性のある公共空間を提案する。これは、今後ますます流動的な人口を抱えると考えられる地方都市において、多くの人が出入りする律動性を受容する新たな公共空間を構想することを通して、多様な滞在者を住民と捉えるものであり、持続的で伸縮性のある空間的枠組みとなるものである。
















大岡山建築賞銀賞受賞。

紹介

リンクの追加。「euro journey」でいいのか?
筑波大の建築友達で、一年休学して旅してた人の写真やらスケッチやら。彼が旅行している間、ちょうど僕も窓のリサーチなんかでスペイン・ポルトガルをまわってたから、ここがよかったよとか色々教えてあげたら、お礼にとシザのMarco de Canavezesのサンタ・マリア教会の写真をくれて、その写真がすごく良かった。結局僕は日程的にサンタ・マリア教会にだけ行けなかったから、だからこそあの写真をくれたんだろうか。
そんなできごとも気がつけば、一年以上も前の話。お互い次のフェーズに進むんだねと、飲んだのが二週間くらい前か。
適当でひねくれてる(つもりはないけど)僕に比べ、ちょっと熱すぎるくらい熱くてまっすぐなやつです。
それにしても、いい写真とるよねー。あと彼はすごく強い絵をもってる。

完敗

親父と議論した。
建築にたくした夢を伝えたくて、建築と建築家の存在理由について述べたぼくの100の、いや1000の言葉は、親父が建築への期待について語った、たった一言の言葉の前に、みごとに崩れ去った。
それは単なる偶然じゃなくて、最近色々とつっかえていたことへのひとつの答えでもあった。
今年の春からは北海道大学大学院の観光学院というところの博士課程に進学する。建築をやりにそこへ行く。なんでそんなとこに行くのか。ずっとそう問われてきた。なかなかわかってもらえないだろう。そう思いながら、色んな人に説明するうちに、どう説明すればいいのかだけが少しずつうまくなった。でもそれはただの説明であって本質的じゃない。説明の仕方は、相手によって変わる。それでいいと思っていたのに、いつのまにか相手と自分が混ざってしまっていた。人に対する説得が、自分への説得になってしまっていた。そうじゃないはずだ。
建築について尊敬できる先輩と久しぶりに会うことになって、やっぱり同じことを聞かれた。「わかってもらえないだろうけど」、そう前置きしながら説明した。いいから5年後、いや10年後を見てくれ、そう言って逃げたかった。それは悪い癖だ。今日気がついた。別に亜流に流れるつもりも、トリッキーなことをするつもりもない。人がそう言うことに否定はしないが、地元に帰るというふうにも思っていない。北海道へのノスタルジーでもない。
ただ冷静に色々考えた結果、自分にとっては王道だと思った。色んな時代の流れやタイミングが垣間見せてくれた選択肢だと思った。それは立派な王道だと、その先輩はそう言ってくれた。その人がそう言ってくれたのは、自分にとって、塚本先生が背中を押してくれたことの次に大きかった。
とにかく色んな説明をしてきた。でもここではっきりと修正しよう。
建築の夢を、大真面目に語る。そのために行こう。色んな専門の人がいっぱいいる。建築ってなに?なにしに来たの?それにちゃんと答えないといけないと思って来た。建築の仲間で、こういうのがいい、これは自由だ、キレてる、そう言ってきたことを、何か別の言葉で伝えなければいけないと思った。それが異分野の人とのコミュニケーションだと思った。そのためにぼくは、知らないうちに、”正しさ”に頼っていた。でもそれは正しければ正しいほど、自己弁護に過ぎなかった。本当はそんなことに興味は無い。したいのは建築の、空間の話だ。
建築のことなんてわかんないだろう、無意識にそう見くびっていた親父に、はっきりと指摘された。同じ医者になったらずっと背中を追い続けなければならないだろう。多分、反抗期のいつかにそう思って自分の道を探した。それがこのザマだ。いつになっても100年早い。
そして問題なのは自分のこの傲慢さだ。
実にいいタイミングだ。2011年の3月10日。一から出直そう。

その後の羊

その後の羊はどうなったのか。
羊牧場との衝撃的な出会いをはたした6月。ただただその事実がどういうことなのかを知りたいという気持ちだけで羊牧場に飛び込んだ8月。あっという間にたどりついた10月、も終わり。
そう、8月に僕は羊牧場で何日か生活することができた。研究のため、とは言ったものの、建築の研究はいつもサイエンティフィックとは限らない。ただ、彼らがどういう世界で生きているのか知りたくて、ほんとにそれだけと言えばそれだけだ。だから、一応建物の実測とか、事前に計画できそうなことを申し訳程度に予定表に書き込む以外、行ってみなけりゃわからない、体当たりの滞在だったわけだ。
そんなわけのわからない僕を受け入れてくれたシューゴーさんとアイコさん、そしてかわいくてやんちゃなパブロくん(本名は羊牧場のブログ『未知の道』参照)には本当に感謝しています。
8月の滞在から、この文章までだいぶ日があいたのは、特に理由があるわけではなくて、そろそろ書きたくなってきた、ただそれだけのことです。おそらく、帰ってきてすぐだと、あまりにのめり込んでるというか、感情移入しすぎているというか、そういう意味で、自分が思ったこととズレたことを書きつづってしまいそうな危うさを、なんとなく感じていたからかもしれません。ほとんど条件反射のように、本当にそう思っているのどうかかわからない、意味のない言葉をカメラに向かって発し続ける、興奮気味のテレビレポーターのようなと言ったら、もっとわかりにくいだろうか。。
それはさておき。
牧場での数日は、客観的に見たら、なんだか滑稽な共同生活だったかもしれません。
羊の移動を手伝わせてもらいました。
畜舎を直すために、ジャッキやバールやインパクトや、何やら不思議な大工作業。
羊の仕分け。
大盛りのごはん。
実は快適な住居。
シューゴーさんが時折弾くピアノ。
いっぱい遊んでくれたパブロくん。
背中がめちゃくちゃ痛いテントでの睡眠。
テントを出ると真っ暗で何も見えない、でも満天の星空。
明るい月。
おいしい牛乳。
最初の夜のビール。
写真を撮りに近づいただけで、一匹ついてきてしまったらもう大変、突然始まる羊の大移動。
蚊。
堆肥のにおい。
なかなかうまくいかない毛糸づくり。
むぎ茶。
お菓子。
上士幌にいる、ユニークな移住者のみなさん。
題名を忘れた、とても素敵な絵本。
僕は話がしたかった、面と向かって。面と向かいたいと思うのは、沈黙がすごく大事だから。言葉を話しているときと、沈黙しているときと、どっちの情報量が多いだろう。僕が羊牧場でした会話は、どちらかというとそういう類いのものだった気がする。
僕は色々と誤解をしていた。現実はやっぱりいい感じに複雑で、浅い想像力なんて簡単に超えてしまう。そのことがすごく嬉しいわけだけれども。色んな発見があった。
6月に訪れたときの、羊牧場の断片的な情報は、いくつかの角度から僕を魅了した。都会を離れて、自然に囲まれた新たな生活。その決断。羊飼いということ。羊にまつわる色んなエピソード。趣味である音楽。セロ。ピアノ。簡素すぎる住居。神殿のような干し草置き場。丘をゆっくり動くモコモコの羊。その目。
そして想像した。
羊飼いが、たまに広大な牧草地の中で音楽を奏でる。そんな光景が目に浮かんだ。畜舎に隣接された住居は、そうするよりなかったんだろう。ロマンチックなだけじゃない、現実的な問題だって当然ある。そんな具合に。
でもそうじゃない。セロはもうあまり弾かない。現実の色んなことを忘れて、音楽の世界に入り込む、そのことが以前ほど大きな意味を持たなくなった。音楽は相変わらず彼らのそばにあるだろうけど、逃れるべき現実は無くなった。向き合っていたい充実した現実がそこにある。似たような話を、他の移住者に聞くことができた。ある人は、移住してくる前にやっていた趣味をすっかりやめた。長い間その人のアイデンティティであった趣味。それがもう絶対ではなくなった。
「羊が遠いよ。」アイコさんが何日目かの夜にふと口にした。
牧草地の真ん中におかれたバスで生活していたことのある彼ら。文字通り羊に囲まれていた。またあいつが鳴いてる、あの子の様子が少し変だ。すべて手に取るようにわかった。羊に囲まれて眠った。それに比べて今の家は羊から遠すぎる。玄関を出て10m歩けばパドックがあって羊がいる。でもきっとそういうことじゃない。
「羊が遠い。」その一言が、牧場という言葉にまとわりついていた色んな常識とか既成概念とか、建築的に言ったら牧場という形式とか構成だとかを、一気に吹き飛ばした。