ザハ/過去の設計から見えること

午前中にザハのシャネルパビリオンへ。

藤村さんの呼びかけで15人くらいの建築学科生が集まっており、僕は初対面の人が多かったので色々挨拶。ザハ建築を実際に目にするのは初めてだったが、ぬるりとした物体が代々木体育館のそばに横たわっているのはすごい光景だ。どうしてもテーマパークのアトラクションのようにやや安っぽく見えてしまうのは、周辺があっけらかんとした公園だからか。東京より一足早く公開された香港の映像を見ると、光り輝く高層ビル群に囲まれている光景は圧巻で、そういうシーンの方がかっこいい。日本にはこれほどの規模のものを許容する空間が都市の中になかなか無い。(香港も港付近だったが)移動パビリオンの一連の移動は各都市の構造や性格の違いを浮き上がらせてくれそう。新宿とか銀座のど真ん中にあることを想像すると楽しい。六本木とか?
外装はFRPと聞いたが、あのパビリオン全体でなんと20億円もするらしい。。
以下、簡単な感想。
マネキンのようなスタッフが入口まで誘導。渡されたMP3から流れる小野ヨーコ(?)の不思議な声に導かれ、前の人と時間差で一人ずつ中へ案内される。MP3の誘導はザハの建築がもつ空間の流動性とよい関係を結んでいるとは言い難く、身体は拘束されるがごく普通の音声ガイドの域を出ない。同じ音声を時間差で聞いているので、同じ動きを時間差でほぼ無限に繰り返される光景やそこで生じる各人の反応-しだいに指示を無視しだしててきょろきょろする人、わき目もふらずまじめに誘導される人、最初から笑いだす人-によって色んな個性の発露が垣間見られる様は興味深い。うねる壁が腰掛になったりテーブルになったり、自然に身体に寄り添ってくるような感覚は新鮮だったが、展示が区切られていて見通せるパースぺクティブが無いからか、CG動画で見られるような流動性はあまり感じられない。ひとつながりのぬるっとした空間に対してアート作品が「点」なのが気になった。個々のアート作品にはいくつか気になるものもあったけど、特に後半は空間も間延びして(少しずつ明るくなっていくから?)、緊張感を欠いていたように思う。夜の方がいいかも。
夕方から研究室の新歓プレゼン。
学校の設計課題3題とコンペ作品1題をプレゼン。設計課題をさらっと説明し、全ての設計を通して社会の中でどう建築が位置づくのかということが常に自分の関心にあるとまとめた。かなり漠然としたままであるが。。藤村さんからは、形式性が強く残っているように見えるが、形式についてどう考えているのか、それが社会との関係を語る上でどういう意味を持っていると考えるのかと問われる。
形式は様々な条件を、建築に変換するための「仮定」であり、そのスタディを通して全く別の形式に移行するかもしれないし、形式の純度が落ち、形式があやふやになっても構わない、つまり形式性が明確に残ることを意図しているわけではなく作業仮定とも言えると応答。ただその形式の飛躍や新しい建築言語が生まれる前に設計が完了してしまっていることも事実。結果的に形式が強く残る。自分も設計しながら自分が仮定した形式から結局抜け出せていないことを歯がゆく思っていた。結局全て内部の空間体験から形式を導いているのではないかという指摘も確かにその通りである。緩やかにカーブする壁、不定形なグリッド、折れ曲がって積層するスラブ…全て内部の体験を考えたうえで設定された形式だ。果たしてそれは社会と建築を結ぶものとして説得力を持ちうるのだろうか。
形式の設定が内部の体験に依るものであることの結果として、外観が無いのでは意識されていないのではとの指摘も。確かに自分は建築図面で表現される立面をあまり信用していなかったように思うが、外からどう見えるのかも体験だという先生の指摘は示唆に富む。
過去の作品を並べると見えてくることがある。建築の形式性と外観について大いに考えさせられた一日だった。貴重な時間を割いてくれた先生や先輩たちに感謝。

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